教育はもともと、きわめて女性的な性格のつよいものである。
生まれたばかりの赤ん坊を見ても、これを育てる”教育”には母親がいかに大きな役割を果たすかがわかる。
幼稚園が女の先生でないとやって行けない現実があることも多くの人が認めている通りである。
ただ、男性的性格を忘れてしまうと教育は骨格を見失いかねない。
目先の細かいことをやかましくいっても、長い目で人間の教育は何をすべきかというようなことが欠落しては泰山鳴動してねずみ一匹出ないかもしれない。
教育熱が高まって教育はいよいよ荒れ乱れるというおそれもある。
家庭で父親と母親とが、おのおの違った役割をもって子供のしつけに当たっているとき、もっとも望ましい効果をあげる。
同じような公教育においても、男性的要素と女性的要素とが程よく調和したとき、もっともよい成果を望みうるであろう。
学校に女性教員が多くなってきたのなら、それだけ意識的に男性的理念を導入する必要がある。
「ライフワークの思想」
外山滋比古(とやま しげひこ 1923~)
筑摩書房 2009年7月発行・より
母親が叱ったら父親は
「よしよし、もう、わかったな、今度から気をつけるんだぞ」
といってくれるとか、父親に叱られたら母親がとりなして一緒に詫びてくれるとか、そういうものであらまほしい。
父親と母親が口を揃えて叱る、あるいは母親に目いっぱい叱られたうえに、帰宅した父親に母親が告げ口するものだから、あらためてまた父親に叱られる、
などというのは、子供としては、まことに切ないであろうと思われる。
もちろん、子供は叱るべきは叱らないといけない。
人間の識見、精神的背骨を叩きこんでやるために、善悪のいろはは、きちんと教えてやらなければならない。
しかし、子供の顔を立ててやる、ということが必要な場合もあるのだ。
「おせい&カモカの昭和愛惜」
田辺聖子(たなべ せいこ 1928~)
株式会社文芸春秋 2006年10月発行・より
24日のブログで「おせい&カモカの昭和愛憎」と書いてしまいました正しくは「愛惜」ですので訂正しておきました。
紅葉 光が丘公園(東京・練馬)12月24日撮影