毛沢東は、自分が知識人であるにもかかわらず、あるいは自分が知識人であったから、知識人が嫌いだった。
ものを考える人間は自分一人いればたくさんで、あとは自分の言う通り従順に働けばよい、という考えだったようである。
たしかに中国の知識人というのは昔から、わがままで、気位が高くて、口数が多く、すなおでない、まことにあつかいにくい連中である。
しかし国を運営してゆくにはやはりこの連中にたよるほかないので、歴代の支配者はみな腹の虫をおさえて知識人を使ってきた。
また、おだてて使いさえすれば、盗賊王朝にでも夷狄の王朝にでも忠誠をつくすのが中国の知識人である。
毛沢東の知識人狩りは「反右派闘争」が初めてではなくて、一九四二年、延安にいたころに一度やっている「整風運動」というのがそれである。
日本との戦争が始まると、純真で善良な若い知識人たちは、延安を中心とする共産党の支配地区、いわゆる「解放区」のことを、まるで人類の理想が実現されたユートピアみたいに思って、ぞくぞくと「解放区」に集まってきた。
ところが実際に来てみると、党幹部を頂点とする階級性がガッチリできていて、幹部はうまいものを食い、一般党員はなげやりになって抗日救国の志なんかこれっぱかしもなく、一般民衆は急に大勢やってきた共産党に食いものを取られてまるで生気がない。
こんなはずじゃなかったとあちこちでかたまってはブツクサと言い始めたのを、甘ったれるんじゃない、と締めあげたのが「整風運動」である。
二万人くらいが殺されたり自殺したりしたという。
見せしめになってつるしあげられたのが、疑問を文章に書いて発表した若い文学者たちだった。
この運動の指針になったのが毛沢東の『延安の文芸座談会での講話』、略して『文芸講話』という演説で、いっさい文句を言わずひたすら共産党をほめたたえよ、というものだが
一時日本で、これが人類の文学芸術の新しい方向を指し示すもののように持てはやされたことがある。
あとから見ると、この「整風運動」が豫行演習で、十五年後の「反右派闘争」が本番、という形になっている。
今度は全中国が範囲で、ちょっとでも共産党のやることに文句のありそうな知識人を片端から槍玉にあげてつるしあげたのだった。
しかしながら、中国という国は、人間はたくさんいるけれども、国の「元気」(根源的な精気、活力)をになっているのは知識人である。
その知識人の「元気」を奪い、離反させたことで、中華人民共和国自体の「元気」がなくなってしまい、あとは恐怖と惰性とでやってゆくよりほかなくなった。
中華人民共和国はここで下り坂に転じたわけで、その意味では、死んだ人は多くないけれども、国家の活力に与えた影響は、この反右派闘争が一番大きい。
「中国の大盗賊・完全版」
高島俊夫(たかしま としお 1937~)
株式会社講談社二〇〇四年十月発行・より
光が丘公園(東京・練馬区)の紅葉12月24日撮影