参考資料3094 | シフル・ド・ノストラダムス

シフル・ド・ノストラダムス

ノストラダムスの暗号解読

《最後の謎、神》
「前章までは人類の進化がどういう過程を経て行われるのか、ということを四つの歴史に分けて予言を解読しながら説明してきた。
 だが、これが理解できたとしても、まだ、疑問が残る。それは、「なぜ、人類はこういうことをしているのか」「なんのために人間は生まれてきたのだろうか」という最も根源的な疑問である。
 これは、いわゆる”神と人間”の問題である。本当の意味での神と人間の関係、神の正体と目的が解明されなければ謎は残る。
”神”とは人類に残された最後のそして最大の謎である。
 聖書においては、”神””主”とは創造主であり、宇宙、地球、すべての生き物、そして人間を造った造り主である、とされている。
「では、いったい何のためにこれらを神は造ったのだろうか」というと、その答えが書かれてあるようなないような、実に漠然としている。
 聖職者も哲学者もいろいろな説を述べているが、いまだに誰もはっきりした解答は出せないでいる。
 私も、この”神”についてはなかなかわからなかった。予言のしくみ———聖書や諸世紀は実は未来人が自分達が地球に復帰するために書いたものだ———ということがわかってきても神の謎はなかなかとけなかった。”神”とはただ、漠然としたイメージそのもので、人類がかってに夢みた幻想なのだろうか。天使にしても神とは自分達の計画を説明するために想定した、便宜上の方便なのだろうか。
 私も、予言を解説していっても、神の問題は常にひっかかっていた。特に疑問となったのはグランド・クロスのことである。
 人類の審判の時は一九九九年であり、四つの歴史においても、一九九九年は常に節目の時で、その時を境にして人類の歴史、人々の生活は一変してしまうのである。
 その節目の時にグランド・クロスがある。星までが、なぜ、あの時にあのような配置をとるのだろうか。偶然にしてはできすぎている。これには、人間、天使も超えたもっと大きな存在、宇宙、神というものを考えないわけにはいかない。”神”という大きな壁、最後の関門が立ちはだかっている。
 だが、私は、イメージ上の神でごまかしたくなかった。なんとしても、”神”も自分で納得できるように理解したかった。天使も私には教えてくれないのだろうか。」
「セザール・ノストラダムスの超時空最終預言(下)」浅利幸彦著より

感想
>まだ、疑問が残る。それは、「なぜ、人類はこういうことをしているのか」「なんのために人間は生まれてきたのだろうか」という最も根源的な疑問である。

2つ合わせて、「人間の生きる意味は何か」という事にしよう。よく言われるのが、生きる事に意味なんかない、あるのは生きようとする意志だけだ、という事。私も賛成である。ついでに言えば、死ぬまでの暇つぶしかな。
ただし、本当に「終わりの時」があるとすれば、人が生きる意味は「最後の審判」を受ける事だろう。ただし、それは生まれた時に結果が決まっているらしい。その根拠は、

「12 また、死んでいた者が、大いなる者も小さき者も共に、御座の前に立っているのが見えた。かずかずの書物が開かれたが、もう一つの書物が開かれた。これはいのちの書であった。死人はそのしわざに応じ、この書物に書かれていることにしたがって、さばかれた。
13 海はその中にいる死人を出し、死も黄泉もその中にいる死人を出し、そして、おのおのそのしわざに応じて、さばきを受けた。
14 それから、死も黄泉も火の池に投げ込まれた。この火の池が第二の死である。
15 このいのちの書に名がしるされていない者はみな、火の池に投げ込まれた。」
「ヨハネの黙示録」第20章12節~15節(口語訳)

「20:12わたしはまた、死者たちが、大きな者も小さな者も、玉座の前に立っているのを見た。幾つかの書物が開かれたが、もう一つの書物も開かれた。それは命の書である。死者たちは、これらの書物に書かれていることに基づき、彼らの行いに応じて裁かれた。
20:13海は、その中にいた死者を外に出した。死と陰府も、その中にいた死者を出し、彼らはそれぞれ自分の行いに応じて裁かれた。
20:14死も陰府も火の池に投げ込まれた。この火の池が第二の死である。
20:15その名が命の書に記されていない者は、火の池に投げ込まれた。」
「ヨハネの黙示録」第20章12節~15節(新共同訳)

「22 わたしは、この都の中には聖所を見なかった。全能者にして主なる神と小羊とが、その聖所なのである。
23 都は、日や月がそれを照す必要がない。神の栄光が都を明るくし、小羊が都のあかりだからである。
24 諸国民は都の光の中を歩き、地の王たちは、自分たちの光栄をそこに携えて来る。
25 都の門は、終日、閉ざされることはない。そこには夜がないからである。
26 人々は、諸国民の光栄とほまれとをそこに携えて来る。
27 しかし、汚れた者や、忌むべきこと及び偽りを行う者は、その中に決してはいれない。はいれる者は、小羊のいのちの書に名をしるされている者だけである。
「ヨハネの黙示録」第21章22節~27節(口語訳)

「21:22わたしは、都の中に神殿を見なかった。全能者である神、主と小羊とが都の神殿だからである。
21:23この都には、それを照らす太陽も月も、必要でない。神の栄光が都を照らしており、小羊が都の明かりだからである。
21:24諸国の民は、都の光の中を歩き、地上の王たちは、自分たちの栄光を携えて、都に来る。
21:25都の門は、一日中決して閉ざされない。そこには夜がないからである。
21:26人々は、諸国の民の栄光と誉れとを携えて都に来る。
21:27しかし、汚れた者、忌まわしいことと偽りを行う者はだれ一人、決して都に入れない。小羊の命の書に名が書いてある者だけが入れる。
「ヨハネの黙示録」第21章22節~27節(新共同訳)

「8 地に住む者で、ほふられた小羊のいのちの書に、その名を世の初めからしるされていない者はみな、この獣を拝むであろう。」
「ヨハネの黙示録」第13章8節(口語訳)

「13:08地上に住む者で、天地創造の時から、屠られた小羊の命の書にその名が記されていない者たちは皆、この獣を拝むであろう。」
「ヨハネの黙示録」第13章8節(新共同訳)

「8 あなたの見た獣は、昔はいたが、今はおらず、そして、やがて底知れぬ所から上ってきて、ついには滅びに至るものである。地に住む者のうち、世の初めからいのちの書に名をしるされていない者たちは、この獣が、昔はいたが今はおらず、やがて来るのを見て、驚きあやしむであろう。」
「ヨハネの黙示録」第17章8節(口語訳)

「17:08あなたが見た獣は以前はいたが、今はいない。やがて底なしの淵から上って来るが、ついには滅びてしまう。地上に住む者で、天地創造の時から命の書にその名が記されていない者たちは、以前いて今はいないこの獣が、やがて来るのを見て驚くであろう。」
「ヨハネの黙示録」第17章8節(新共同訳)

「最後の審判」は初めから結果が決まっているショーのようなものなのだろう。ただし、「ヨハネの黙示録」は胡散臭いので、旧約聖書からも引用しよう。

「28 彼らをいのちの書から消し去って、義人のうちに記録されることのないようにしてください。」
「詩篇」第69篇28節(口語訳)

「69:29命の書から彼らを抹殺してください。あなたに従う人々に並べて
そこに書き記さないでください。」
「詩篇」第69篇29節(新共同訳)

「16 あなたの目は、まだできあがらないわたしのからだを見られた。わたしのためにつくられたわがよわいの日のまだ一日もなかったとき、その日はことごとくあなたの書にしるされた。」
「詩篇」第139篇16節(口語訳)

「139:16胎児であったわたしをあなたの目は見ておられた。わたしの日々はあなたの書にすべて記されている
まだその一日も造られないうちから。」
「詩篇」第139篇16節(新共同訳)

「31 モーセは主のもとに帰って、そして言った、「ああ、この民は大いなる罪を犯し、自分のために金の神を造りました。
32 今もしあなたが、彼らの罪をゆるされますならば――。しかし、もしかなわなければ、どうぞあなたが書きしるされたふみから、わたしの名を消し去ってください」。
33 主はモーセに言われた、「すべてわたしに罪を犯した者は、これをわたしのふみから消し去るであろう。
34 しかし、今あなたは行って、わたしがあなたに告げたところに民を導きなさい。見よ、わたしの使はあなたに先立って行くであろう。ただし刑罰の日に、わたしは彼らの罪を罰するであろう」。」
「出エジプト記」第32章31節~34節(口語訳)

「32:31モーセは主のもとに戻って言った。「ああ、この民は大きな罪を犯し、金の神を造りました。
32:32今、もしもあなたが彼らの罪をお赦しくださるのであれば……。もし、それがかなわなければ、どうかこのわたしをあなたが書き記された書の中から消し去ってください。」
32:33主はモーセに言われた。「わたしに罪を犯した者はだれでも、わたしの書から消し去る。
32:34しかし今、わたしがあなたに告げた所にこの民を導いて行きなさい。見よ、わたしの使いがあなたに先立って行く。しかし、わたしの裁きの日に、わたしは彼らをその罪のゆえに罰する。」」
「出エジプト記」第32章31節~34節(新共同訳)

生まれ付き決まっているというのは、誤解だったようだ。因みに、「出エジプト記」の「裁きの日」はモーセの時代の「裁きの日」でもうすでに終わっている。
ただし、こんな文章もある。

「9 主は言われた、「あなたは行って、この民にこう言いなさい、『あなたがたはくりかえし聞くがよい、しかし悟ってはならない。あなたがたはくりかえし見るがよい、しかしわかってはならない』と。
10 あなたはこの民の心を鈍くし、その耳を聞えにくくし、その目を閉ざしなさい。これは彼らがその目で見、その耳で聞き、その心で悟り、悔い改めていやされることのないためである」。」
「イザヤ書」第6章9節~10節(口語訳)

「06:09主は言われた。「行け、この民に言うがよい
よく聞け、しかし理解するな
よく見よ、しかし悟るな、と。
06:10この民の心をかたくなにし
耳を鈍く、目を暗くせよ。目で見ることなく、耳で聞くことなく
その心で理解することなく
悔い改めていやされることのないために。」」
「イザヤ書」第6章9節~10節(新共同訳)

「悔い改めよ」の逆の意味だろう。全ては初めから決まっている事なので、そのままにしていろ、という意味だと思う。人類削減計画の側面もあるのだろうか。

「11 不義な者はさらに不義を行い、汚れた者はさらに汚れたことを行い、義なる者はさらに義を行い、聖なる者はさらに聖なることを行うままにさせよ」。
12 「見よ、わたしはすぐに来る。報いを携えてきて、それぞれのしわざに応じて報いよう。」
「ヨハネの黙示録」第22章11節~12節(口語訳)

「22:11不正を行う者には、なお不正を行わせ、汚れた者は、なお汚れるままにしておけ。正しい者には、なお正しいことを行わせ、聖なる者は、なお聖なる者とならせよ。 22:12見よ、わたしはすぐに来る。わたしは、報いを携えて来て、それぞれの行いに応じて報いる。」
「ヨハネの黙示録」第22章11節~12節(新共同訳)

>天使にしても神とは自分達の計画を説明するために想定した、便宜上の方便なのだろうか。

「天使=未来人」は私も賛成である。「神」についてはこんな文章がある。

「13 モーセは神に言った、「わたしがイスラエルの人々のところへ行って、彼らに『あなたがたの先祖の神が、わたしをあなたがたのところへつかわされました』と言うとき、彼らが『その名はなんというのですか』とわたしに聞くならば、なんと答えましょうか」。
14 神はモーセに言われた、「わたしは、有って有る者」。また言われた、「イスラエルの人々にこう言いなさい、『「わたしは有る」というかたが、わたしをあなたがたのところへつかわされました』と」。
15 神はまたモーセに言われた、「イスラエルの人々にこう言いなさい『あなたがたの先祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である主が、わたしをあなたがたのところへつかわされました』と。これは永遠にわたしの名、これは世々のわたしの呼び名である。」
「出エジプト記」第3章13節~15節(口語訳)

「03:13モーセは神に尋ねた。「わたしは、今、イスラエルの人々のところへ参ります。彼らに、『あなたたちの先祖の神が、わたしをここに遣わされたのです』と言えば、彼らは、『その名は一体何か』と問うにちがいありません。彼らに何と答えるべきでしょうか。」 03:14神はモーセに、「わたしはある。わたしはあるという者だ」と言われ、また、「イスラエルの人々にこう言うがよい。『わたしはある』という方がわたしをあなたたちに遣わされたのだと。」 03:15神は、更に続けてモーセに命じられた。「イスラエルの人々にこう言うがよい。あなたたちの先祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である主がわたしをあなたたちのもとに遣わされた。これこそ、とこしえにわたしの名
これこそ、世々にわたしの呼び名。」
「出エジプト記」第3章13節~15節(新共同訳)

「神」には名前があって「わたしはある」と言うそうである。因みに、「再臨するイエス」はこの「神」である。つまり、「神」とは特殊な「人間」なのである。

「26.あなたがたについて、わたしの言うべきこと、さばくべきことが、たくさんある。しかし、わたしをつかわされたかたは真実なかたである。わたしは、そのかたから聞いたままを世にむかって語るのである」。
27.彼らは、イエスが父について話しておられたことを悟らなかった。
28.そこでイエスは言われた、「あなたがたが人の子を上げてしまった後はじめて、わたしがそういう者であること、また、わたしは自分からは何もせず、ただ父が教えて下さったままを話していたことが、わかってくるであろう。」
「ヨハネによる福音書」第8章26節~28節(口語訳)

「08:26あなたたちについては、言うべきこと、裁くべきことがたくさんある。しかし、わたしをお遣わしになった方は真実であり、わたしはその方から聞いたことを、世に向かって話している。」 08:27彼らは、イエスが御父について話しておられることを悟らなかった。 08:28そこで、イエスは言われた。「あなたたちは、人の子を上げたときに初めて、『わたしはある』ということ、また、わたしが、自分勝手には何もせず、ただ、父に教えられたとおりに話していることが分かるだろう。」
「ヨハネによる福音書」第8章26節~28節(新共同訳)

>その節目の時にグランド・クロスがある。星までが、なぜ、あの時にあのような配置をとるのだろうか。偶然にしてはできすぎている。これには、人間、天使も超えたもっと大きな存在、宇宙、神というものを考えないわけにはいかない。

強いて言えば、シンクロニシティーを起こすものが「神」だろう。それは未来人の共通無意識なのだろうか。
因みに、モーセの時代はモーセが「契約の使者」でイエスの時代はイエスが「契約の使者」だったのだろう。真の「終わりの時」の契約の使者は、1999年8月18日(グランド・クロス)の日にイエスが磔刑に処されたと言われている33歳半の人物なのかもしれない。(ついでに言えば、イエス双子説もあるので双子の片割れかもしれない。)

おまけ