参考資料3092 | シフル・ド・ノストラダムス

シフル・ド・ノストラダムス

ノストラダムスの暗号解読

《毒麦のたとえ話》
「このように考えていくとイエスの次の言葉も理解できよう。

 イエスは、別のたとえを持ち出して言われた。「天の国は次のようにたとえられる。ある人が良い種を畑に蒔いた。人々が眠っている間に、敵が来て、麦の中に毒麦を蒔いて行った。芽が出て、実ってみると、毒麦も現れた。僕たちが主人のところに来て言った。『だんなさま、畑には良い種をお蒔きになったではありませんか。どこから毒麦が入ったのでしょう。』主人は、『敵の仕業だ』と言った。そこで、僕たちが、『では、行って抜き集めておきましょうか』と言うと、主人は言った。『いや、毒麦を集めるとき、麦まで一緒に抜くかもしれない。刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい。刈り入れの時、「まず毒麦を集め、焼くために束にし、麦の方は集めて倉に入れなさい」と、刈り取る者に言いつけよう。』」(マタイによる福音書 一三の24~30)

 このたとえ話をイエス自身で説明している。

 それから、イエスは群衆を後に残して家にお入りになった。すると、弟子たちがそばに寄って来て、「畑の毒麦のたとえを説明してください」と言った。イエスはお答えになった。「良い種を蒔く者は人の子、畑は世界、良い種は御国の子ら、毒麦は悪い者の子らである。毒麦を蒔いた敵は悪魔、刈り入れは世の終わりのことで、刈り入れる者は天使たちである。だから、毒麦が集められて火で焼かれるように、世の終わりにもそうなるのだ。人の子は天使たちを遣わし、つまずきとなるものすべてと不法を行う者どもを自分の国から集めさせ、燃え盛る炉の中に投げ込ませるのである。彼らは、そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。そのとき、正しい人々はその父の国で太陽のように輝く。耳のある者は聞きなさい。」(マタイによる福音書 一三の36~43)

 イエスがここまでたとえを説明しているから、この言葉の意味もおわかりいただけたと思う。
 人の子(人間の子孫)である天使達は、我々の歴史においても、二千年以上も前に良い種(天国の言葉、福音)を蒔いた。その時点では、刈り入れの時がどうなっているか、どれくらいの収穫があるかわからない。けれども、それ相当の収穫があると期待するのは当然である。
 そして、二千年以上待って、その時間系がやっと二十世紀後半に達して刈り入れの時が来た。ただし、毒麦も混じっているので毒麦と麦を選別しなければならない。それで毒麦と麦を選り分け、麦を右側に置き、毒麦は左側に置く、右側の麦は倉に入れ、左側の毒麦は役に立たないから火で焼いてしまう。
 このたとえ話には、「天使が歴史のずっと前の時代に福音(予言)を与えて地球人を指導してきた。そして、その時間系が刈り入れの時になると地球人を選別する」という意味と、「人間には光の子(天使的人間)と闇の子(悪魔的人間)の二種類がある。そして、刈り入れの時以後はこれらは別々に暮らすようになる」という意味の二つの意味が混合されている。
 天使がなぜ、早いうちに毒麦を刈り取らないのか、というと、実は毒麦(山羊)が麦(羊)に変わる可能性があるのと、毒も刈り入れ間近にならないと実がならない、つまり、光の子とて二十世紀後半にならなければ、予言の真の意味を理解できないからである。
 彼らは我々の歴史において、二千年以上も待っていたのである。種を蒔いた時間系が二十世紀後半になるまでずうっと待っていたのである。ここに天使の忍耐がある。
 そして、ここでは、天使は、まず、毒麦を集めて火で焼いて、それから麦を倉に入れる、と言っている。天使は毒麦のほうが麦よりも少ないだろうと予想していたのだ。次のたとえでも、そのように前提されている。

 また、天の国は次のようにたとえられる。網が湖に投げ降ろされ、いろいろな魚を集める。網がいっぱいになると、人々は岸に引き上げ、座って、良いものは器に入れ、悪いものは投げ捨てる。世の終わりにもそうなる。天使たちが来て、正しい人々の中にいる悪い者どもをより分け、燃え盛る炉の中に投げ込むのである。悪い者どもは、そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。」(同 一三の47~50)

 しかし、今回はどうだろう。麦と毒麦、羊と山羊、良い魚と悪い魚とではどっちが多いだろうか。
 良いもののほうが多いとは御世辞にもいえないのではないか(この”良いもの”とは人間の常識からみての良い人ではない。天使からみて、役に立つ人という意味である)。
 だから、今回は、「正しい人々の中にいる悪い者どもを取り除く」のではなく、「悪い者どもの中にいる正しい人々を拾い上げる」ようにしなければならない。
 携挙された人々は、地に残された悪人が処分されるまでの間、空中にとどまり、悪人の処分がすんだ後に再び地に降ろされるのではない。地は悪人が満ち、とても処分しきれないし、悪魔帝国の準備が着々と進んでいるから、天使の本拠の惑星まで連れていってあげなければならないのである。」
「セザール・ノストラダムスの超時空最終預言(下)」浅利幸彦著より

感想
>携挙された人々は、地に残された悪人が処分されるまでの間、空中にとどまり、悪人の処分がすんだ後に再び地に降ろされるのではない。地は悪人が満ち、とても処分しきれない

内藤正俊氏が面白い事を書いていた事を思い出した。携挙に漏れた人にもチャンスがあるらしい。というより、携挙される人より特別な人らしい。

「この携挙に漏れた人びとが、みなゴミ、芥、ゴキブリのように、一瞬のうちに数万度の光熱によって蒸発してしまうわけでもない。確かに大部分の人びとは焼き尽くされ、蒸発してしまうが、中には生き残る人びともある。レビ記二三章二二節には、
 あなたがたの地の穀物を刈り入れるときは、その刈り入れにあたって、畑のすみずみまで刈りつくしてはならない。またあなたの穀物の落ち穂を拾ってはならない。貧しい者と寄留者のために、それを残しておかなければならない。
 という記述がある。この預言に従えば、たとえ世界を焼き尽くす炎の日の後も地上という畑に落ち穂は残る。すなわちごく一部の人びとが、核戦争で焼き尽くされ、強度の放射能に汚染されたこの地上に細々と生きつづけることになる。
 彼ら、つまり焼けただれた地上に残された者たちには、信仰の「貧しい者」や「寄留者(まだキリストを信じていない異教徒)」に伝道する使命が託されている。
 だから自分がイエスの携挙に漏れたといって悲観することはない。信仰がないので取り残されたのではなく、「大迫害に耐え、伝道の使命を果たせる」と神が見たので残されたのだ。信仰が熱心だから、神の目で見て「神の用に役立つ見込みがある、迫害に耐えてその使命を果たせる」と思われたから残されたのである。
 この世界の大破滅、ハルマゲドンのあと、この地上に残される者は666の獣に支配される名ばかりの形だけの信仰者か、そうでなければどエライ信仰の持ち主である。そして後者のどエライ信仰者は、携挙から取り残された者に「どうすれば救われるか」を説く義務がある。それは間違いなく大変な仕事であろうが、いずれにせよ、「残りものには福(福音)がある」ことだけは間違いない。」
「666の大破滅」内藤正俊著より

どういった種類の人か全く想像出来ない。「真理の御霊」(契約の使者)や選民もどうなっているか定かではないが。

「7 万軍の主は言われる、「つるぎよ、立ち上がってわが牧者を攻めよ。わたしの次に立つ人を攻めよ。牧者を撃て、その羊は散る。わたしは手をかえして、小さい者どもを攻める。
8 主は言われる、全地の人の三分の二は断たれて死に、三分の一は生き残る。
9 わたしはこの三分の一を火の中に入れ、銀をふき分けるように、これをふき分け、金を精錬するように、これを精錬する。彼らはわたしの名を呼び、わたしは彼らに答える。わたしは『彼らはわが民である』と言い、彼らは『主はわが神である』と言う」。」
「ゼカリヤ書」第13章7節~9節(口語訳)

「13:07剣よ、起きよ、わたしの羊飼いに立ち向かえ
わたしの同僚であった男に立ち向かえと
万軍の主は言われる。羊飼いを撃て、羊の群れは散らされるがよい。わたしは、また手を返して小さいものを撃つ。 13:08この地のどこでもこうなる、と主は言われる。三分の二は死に絶え、三分の一が残る。 13:09この三分の一をわたしは火に入れ
銀を精錬するように精錬し
金を試すように試す。彼がわが名を呼べば、わたしは彼に答え
「彼こそわたしの民」と言い
彼は、「主こそわたしの神」と答えるであろう。」
「ゼカリヤ書」第13章7節~9節(新共同訳)

因みに、「わたしの次に立つ人」=「わたしの同僚であった男」という所の英語版は、「the man who is close to me」で「be close to~」は「~に近い、~と親しい仲である」なので、「私に近い男」または「私と親しい仲である男」である。ただし、あくまでも英語版で古代ヘブライ語版ではない。でも、救世主である事は間違いないだろう。
つまり、「真理の御霊」(契約の使者)は神に殺されるのである。(多分、息子が後を継ぐのだろう。「神の計画」は人智では及ばない。)

>しかし、今回はどうだろう。麦と毒麦、羊と山羊、良い魚と悪い魚とではどっちが多いだろうか。

1/3だから良い方が少ないんだろうね。ただし、その後さらに減るようだが、「ヨハネの黙示録」の十四万四千人は嘘だろう。

「1 この後、わたしは四人の御使が地の四すみに立っているのを見た。彼らは地の四方の風をひき止めて、地にも海にもすべての木にも、吹きつけないようにしていた。
2 また、もうひとりの御使が、生ける神の印を持って、日の出る方から上って来るのを見た。彼は地と海とをそこなう権威を授かっている四人の御使にむかって、大声で叫んで言った、
3 「わたしたちの神の僕らの額に、わたしたちが印をおしてしまうまでは、地と海と木とをそこなってはならない」。
4 わたしは印をおされた者の数を聞いたが、イスラエルの子らのすべての部族のうち、印をおされた者は十四万四千人であった。」
「ヨハネの黙示録」第7章1節~4節(口語訳)

「ヨハネの黙示録」を真実だとすると、救われるのはユダヤ人だけである。しかも、

「1 なお、わたしが見ていると、見よ、小羊がシオンの山に立っていた。また、十四万四千の人々が小羊と共におり、その額に小羊の名とその父の名とが書かれていた。
2 またわたしは、大水のとどろきのような、激しい雷鳴のような声が、天から出るのを聞いた。わたしの聞いたその声は、琴をひく人が立琴をひく音のようでもあった。
3 彼らは、御座の前、四つの生き物と長老たちとの前で、新しい歌を歌った。この歌は、地からあがなわれた十四万四千人のほかは、だれも学ぶことができなかった。
4 彼らは、女にふれたことのない者である。彼らは、純潔な者である。そして、小羊の行く所へは、どこへでもついて行く。彼らは、神と小羊とにささげられる初穂として、人間の中からあがなわれた者である。
5 彼らの口には偽りがなく、彼らは傷のない者であった。」
「ヨハネの黙示録」第14章1節~5節(口語訳)

童貞男子だけである。まぁ、シンクロニシティーを起こして、そういう子の方が精神性が高くなる可能性はあるが。

「1 そのとき、弟子たちがイエスのもとにきて言った、「いったい、天国ではだれがいちばん偉いのですか」。
2 すると、イエスは幼な子を呼び寄せ、彼らのまん中に立たせて言われた、
3 「よく聞きなさい。心をいれかえて幼な子のようにならなければ、天国にはいることはできないであろう。
4 この幼な子のように自分を低くする者が、天国でいちばん偉いのである。
5 また、だれでも、このようなひとりの幼な子を、わたしの名のゆえに受けいれる者は、わたしを受けいれるのである。」
「マタイによる福音書」第18章1節~5節(口語訳)

補足
「14 また見ていると、見よ、白い雲があって、その雲の上に人の子のような者が座しており、頭には金の冠をいただき、手には鋭いかまを持っていた。
15 すると、もうひとりの御使が聖所から出てきて、雲の上に座している者にむかって大声で叫んだ、「かまを入れて刈り取りなさい。地の穀物は全く実り、刈り取るべき時がきた」。
16 雲の上に座している者は、そのかまを地に投げ入れた。すると、地のものが刈り取られた。
17 また、もうひとりの御使が、天の聖所から出てきたが、彼もまた鋭いかまを持っていた。
18 さらに、もうひとりの御使で、火を支配する権威を持っている者が、祭壇から出てきて、鋭いかまを持つ御使にむかい、大声で言った、「その鋭いかまを地に入れて、地のぶどうのふさを刈り集めなさい。ぶどうの実がすでに熟しているから」。
19 そこで、御使はそのかまを地に投げ入れて、地のぶどうを刈り集め、神の激しい怒りの大きな酒ぶねに投げ込んだ。
20 そして、その酒ぶねが都の外で踏まれた。すると、血が酒ぶねから流れ出て、馬のくつわにとどくほどになり、一千六百丁にわたってひろがった。」
「ヨハネの黙示録」第14章14節~20節(口語訳)

「14:14また、わたしが見ていると、見よ、白い雲が現れて、人の子のような方がその雲の上に座っており、頭には金の冠をかぶり、手には鋭い鎌を持っておられた。 14:15すると、別の天使が神殿から出て来て、雲の上に座っておられる方に向かって大声で叫んだ。「鎌を入れて、刈り取ってください。刈り入れの時が来ました。地上の穀物は実っています。」 14:16そこで、雲の上に座っておられる方が、地に鎌を投げると、地上では刈り入れが行われた。 14:17また、別の天使が天にある神殿から出て来たが、この天使も手に鋭い鎌を持っていた。 14:18すると、祭壇のところから、火をつかさどる権威を持つ別の天使が出て来て、鋭い鎌を持つ天使に大声でこう言った。「その鋭い鎌を入れて、地上のぶどうの房を取り入れよ。ぶどうの実は既に熟している。」 14:19そこで、その天使は、地に鎌を投げ入れて地上のぶどうを取り入れ、これを神の怒りの大きな搾り桶に投げ入れた。 14:20搾り桶は、都の外で踏まれた。すると、血が搾り桶から流れ出て、馬のくつわに届くほどになり、千六百スタディオンにわたって広がった。」
「ヨハネの黙示録」第14章14節~20節(新共同訳)

これは、「穀物」は選民で「ぶどう」は何を意味しているのだろうか。「これを神の怒りの大きな搾り桶に投げ入れた」とあるので、「黙示録の獣」一派か?
個人的には、従来のクリスチャンではないかと考えている。その理由は、

「1 わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。
2 わたしにつながっている枝で実を結ばないものは、父がすべてこれをとりのぞき、実を結ぶものは、もっと豊かに実らせるために、手入れしてこれをきれいになさるのである。
3 あなたがたは、わたしが語った言葉によって既にきよくされている。
4 わたしにつながっていなさい。そうすれば、わたしはあなたがたとつながっていよう。枝がぶどうの木につながっていなければ、自分だけでは実を結ぶことができないように、あなたがたもわたしにつながっていなければ実を結ぶことができない。
5 わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。もし人がわたしにつながっており、またわたしがその人とつながっておれば、その人は実を豊かに結ぶようになる。わたしから離れては、あなたがたは何一つできないからである。
6 人がわたしにつながっていないならば、枝のように外に投げすてられて枯れる。人々はそれをかき集め、火に投げ入れて、焼いてしまうのである。」
「ヨハネによる福音書」第15章1節~6節(口語訳)

ただし、「実」ではなく「枝」のようだが。とにかく、「ヨハネの黙示録」は胡散臭いが、シンクロニシティーを起こす可能性はある。
話を最初に戻すと、内藤正俊氏のような頑固なクリスチャンが携挙に漏れるような特別な人なのかもしれない。

おまけ