参考資料2046 | シフル・ド・ノストラダムス

シフル・ド・ノストラダムス

ノストラダムスの暗号解読

伝道の書 その9
「1 わたしは日の下に一つの悪のあるのを見た。これは人々の上に重い。
2 すなわち神は富と、財産と、誉とを人に与えて、その心に慕うものを、一つも欠けることのないようにされる。しかし神は、その人にこれを持つことを許されないで、他人がこれを持つようになる。これは空である。悪しき病である。
3 たとい人は百人の子をもうけ、また命長く、そのよわいの日が多くても、その心が幸福に満足せず、また葬られることがなければ、わたしは言う、流産の子はその人にまさると。
4 これはむなしく来て、暗やみの中に去って行き、その名は暗やみにおおわれる。
5 またこれは日を見ず、物を知らない。けれどもこれは彼よりも安らかである。
6 たとい彼は千年に倍するほど生きても幸福を見ない。みな一つ所に行くのではないか。
7 人の労苦は皆、その口のためである。しかしその食欲は満たされない。
8 賢い者は愚かな者になんのまさるところがあるか。また生ける者の前に歩むことを知る貧しい者もなんのまさるところがあるか。
9 目に見る事は欲望のさまよい歩くにまさる。これもまた空であって、風を捕えるようなものである。
10 今あるものは、すでにその名がつけられた。そして人はいかなる者であるかは知られた。それで人は自分よりも力強い者と争うことはできない。
11 言葉が多ければむなしい事も多い。人になんの益があるか。
12 人はその短く、むなしい命の日を影のように送るのに、何が人のために善であるかを知ることができよう。だれがその身の後に、日の下に何があるであろうかを人に告げることができるか。」
旧約聖書「伝道の書」第6章全体

感想
>1 わたしは日の下に一つの悪のあるのを見た。これは人々の上に重い。

一応、新共同訳では、

「06:01太陽の下に、次のような不幸があって、人間を大きく支配しているのをわたしは見た。」

2節以降にかかっているので、2節を見てみよう。

>2 すなわち神は富と、財産と、誉とを人に与えて、その心に慕うものを、一つも欠けることのないようにされる。しかし神は、その人にこれを持つことを許されないで、他人がこれを持つようになる。これは空である。悪しき病である。

一応、新共同訳では、

「06:02ある人に神は富、財宝、名誉を与え、この人の望むところは何ひとつ欠けていなかった。しかし神は、彼がそれを自ら享受することを許されなかったので、他人がそれを得ることになった。これまた空しく、大いに不幸なことだ。」

要は、選ばれし者の話だろう。尾崎豊を考えてみれば良い。才能,財産,名誉を手に入れたが、それらでは満足する事が出来ずに(真実の)愛を求め、覚せい剤で代用した。空しく、不幸な事である。

>3 たとい人は百人の子をもうけ、また命長く、そのよわいの日が多くても、その心が幸福に満足せず、また葬られることがなければ、わたしは言う、流産の子はその人にまさると。

一応、新共同訳では、

「06:03人が百人の子を持ち、長寿を全うしたとする。しかし、長生きしながら、財産に満足もせず
死んで葬儀もしてもらえなかったなら
流産の子の方が好運だとわたしは言おう。」

無縁仏になる事ってそんなに不幸な事なの? 私はそうは思わない。要は、その人が満足していたかどうかだよね。

「人がその友のために自分の命を捨てること、これよりも大きな愛はない。」
「ヨハネによる福音書」第15章13節

因みに、自分で自殺を決断したのならば、自殺したって「流産の子」より不幸とは思わない。

入滅直前の釈迦に料理を給仕したチュンダの自殺
「上記の1~3の事例は全て出家修行者(比丘)の自殺でしたが、在家の信者の自殺のケースを次に挙げます。これは釈迦本人から自殺の許しを得た上で釈迦の目前で自殺がなされたという注目すべき事例です。

「チュンダは(仏)に礼拝をしおわって、一隅に座りました。そして仏に申しあげていいます。「私は入滅したいと思います、私は入滅したいと思います(完全なニルヴァーナを得たいと思います、完全なニルヴァーナを得たいと思います)。」
仏はこのチュンダに告げていいます。「それにふさわしい・ちょうどよい時期を知るべきである(「いまがちょうどふさわしいチャンスであるかどうか、よく考えた上で、随意に行動しなさい」の意。」
そこですぐに、チュンダは仏の前でその場で入滅しました(完全なニルヴァーナを得ました)。)」
『阿含経を読む』下、670ページ。三枝 充悳著 青土社刊

三枝氏はこの事例を
現在の用語で申しますと、チュンダが自殺を計り、釈尊はそれを認め、チュンダは自殺を果たした、ということ
『阿含経を読む』下、663ページ。三枝 充悳著 青土社刊
だと述べています。」
引用元:http://www.geocities.co.jp/Technopolis/3138/suicide_buddhism.html

自殺がそんなに悪い事だったら、釈迦も止めた事だろう。むしろ、自殺という決断を実行する事によって、精神レベルが上がるのかもしれない。そして、釈迦は転生を信じていたようである。
http://zhaozhou-zenji.hatenablog.com/entry/2016/11/08/214212

>6 たとい彼は千年に倍するほど生きても幸福を見ない。みな一つ所に行くのではないか。

一応、新共同訳では、

「06:06たとえ、千年の長寿を二度繰り返したとしても、幸福でなかったなら、何になろう。すべてのものは同じひとつの所に行くのだから。」

何か当たり前の事ばかり書いてあって、イエスの律法とは次元が違うね。まぁ、預言者じゃないから仕方がないか、と思ったらこんな文章があった。

イスラム社会におけるソロモン王
「ソロモンはイスラム教においても預言者の一人とされ、
                        (中略)
ムスリムにあっては、預言者スライマーンは、知恵に満ちていたと同時に、アラブの民間伝承である精霊(ジン)を自由自在に操ったとされている。」
引用元:https://ja.wikipedia.org/wiki/ソロモン#イスラム社会におけるソロモン王

イエスの律法なんか、不倫(願望)は心の中で思っただけでもダメなんだよ。

「5:27 『姦淫するな』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。
5:28 しかし、わたしはあなたがたに言う。だれでも、情欲をいだいて女を見る者は、心の中ですでに姦淫をしたのである。」
「マタイによる福音書」第5章27節~28節

>8 賢い者は愚かな者になんのまさるところがあるか。また生ける者の前に歩むことを知る貧しい者もなんのまさるところがあるか。

一応、新共同訳では、

「06:08賢者は愚者にまさる益を得ようか。人生の歩き方を知っていることが
貧しい人に何かの益となろうか。」

「人生の歩き方」を知っているのは、年配者で人生において結構失敗をしている人だよね。賢さにも種類があるし。私としては、賢者であるより義人であれ、かな。

>10 今あるものは、すでにその名がつけられた。そして人はいかなる者であるかは知られた。それで人は自分よりも力強い者と争うことはできない。

誰かを助けるために、負けると分かっていても突っ込む事は大事だろう。まぁ、負ける戦さはしないというのも分かるが。
補足:https://ja.wikipedia.org/wiki/ゴリアテ

>12 人はその短く、むなしい命の日を影のように送るのに、何が人のために善であるかを知ることができよう。だれがその身の後に、日の下に何があるであろうかを人に告げることができるか。

一応、新共同訳では、

「06:12短く空しい人生の日々を、影のように過ごす人間にとって、幸福とは何かを誰が知ろう。人間、その一生の後はどうなるのかを教えてくれるものは、太陽の下にはいない。」

一時的に悪い事が起きても、長い人生で結果オーライな事もあるからね。何がいいかなんて後になってみないと分からないよ。それを教えてくれるのが、預言者なのかね。

ノストラダムスの予言詩 2巻13番の詩
Le corps sans ame plus n'estre en sacrifice,
Jour de la mort mise en nativite:
L'esprit divin fera l'ame felice,
Voyant le verbe en son eternite.
感情のない身体はもはや犠牲とはならない
(キリストの)降誕において置かれる滅亡の日
崇高な精神は心を至福にするだろう
予言者、彼の永遠への言語表現     (私の訳)

訳の解説
「corps sans âme」は、慣用句で「魂の抜けた人、ふぬけ、指揮官(指導者)を失った軍隊(党)」なので、「魂のない肉体」というような死体的なイメージより現実的な表現を選んだ。
「nativite」(〔キリストの〕降誕、〔聖母マリア、洗者ヨハネの〕誕生、キリスト降誕図(像))降誕(誕生)に「naissance」(誕生、出現)ではなく、「nativite」を使ったのは、キリストの降誕を表したかったとしか考えられない。

おまけ