参考資料1946 | シフル・ド・ノストラダムス

シフル・ド・ノストラダムス

ノストラダムスの暗号解読

ヤコブとエサウ その1
「イサクとリベッカのあいだには、やがて子供が生まれた。しかも、それは双子だった。双子の兄弟というものは、たいていよく似ているものだけれど、この兄弟はまるきりちがっていた。兄のエサウは毛ぶかくて、熊みたいに色の黒い子だった。野山を走りまわるのがすきで、わなをかけたり狩りをしたりして、けものや鳥を相手にくらしていた。一方弟のヤコブは、いつも母親のそばにくっついて、手伝いをしたり、家のそばで畑の仕事をしたりしていた。しかもヤコブは色白のかわいい子だった上、やさしいかしこい子だったから、リベッカはたいそうこの子をかわいがった。
 彼女は、どうかしてこのヤコブに父親のあとをつがせたいと、願うようになった。熊の子のようなエサウが、兄であるばかりにイサクの全財産をついで一族のかしらになり、お気に入りのヤコブがその下で使われるようになるのは、いかにも残念なことだった。
 母親の気持がそうだったから、ヤコブもじぶんがあとつぎになりたいと思うようになった。二人は相談して、なんとかあとつぎの権利をうばいとりたいものと、機会をねらっていた。
 エサウは、母や弟がそんなことを考えているとはすこしも気づかない。のんき者のエサウには、父親の財産や、あとつぎのことなどは、ちっとも興味がなかった。いつも野山をかけまわって、おなかがすけば食べ、のどがかわけば水をのみ、眠くなれば寝るだけのことだった。そのほかのことは、なにも考えなかった。
 ある日、いつものように狩りから帰ってきたエサウは、腹がぺこぺこにすいていた。見ると台所で、弟のヤコブが、おいしそうな豆入りのシチューを煮ている。
「おい、ヤコブ、ぼくにすこしくれ。」
 こう声をかけたが、ヤコブはきこえないのか、知らんふりをしている。
「おい、きこえないのか、そのシチューをぼくにもくれといったら。腹がぺこぺこで、ぶったおれそうなんだ」
と、エサウが言うと、ヤコブはやっとふりむいて、ひややかにいった。
「かわりに何をくれますか。」
「なんでもやるよ、おまえのほしいものは。」
 エサウは豆シチューが食べたいばっかりに、考えなしにこう答えた。
「じゃあ、ぼくをこの家のあととりにしてくれますね。」
「いいとも。おれはすごく腹がすいているんだ。餓死しちまっちゃ、財産なんてなんの役にもたたんからな。さあ、そんなものはおまえにやるから、そのシチューをよこせ。」
「兄さん、それをたしかにちかいますね。」
「ちかった、ちかった!」
 エサウはそう言って、あととりの権利とひきかえに、豆のシチューをもらって食べたのであった。
 こんなことは、ほんの冗談と思われるかもしれない。しかし、そのころはちかいをたてるということは、いわば神の前でかたい約束をすることだった。エサウとしては、なにしろ兄弟の間のことだから、ほんの軽い気持でやったことだったろうが、ちかいはちかいである。ヤコブはシチュー一ぱいで、まんまとあととりの権利を買いとったものと考えた。」
「聖書物語・旧約物語」山室静著より

感想
>しかし、そのころはちかいをたてるということは、いわば神の前でかたい約束をすることだった。エサウとしては、なにしろ兄弟の間のことだから、ほんの軽い気持でやったことだったろうが、ちかいはちかいである。

因みに、イエスの教えは「誓ってはならない」である。

「また昔の人々に『いつわり誓うな、誓ったことは、すべて主に対して果せ』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。
しかし、わたしはあなたがたに言う。いっさい誓ってはならない。天をさして誓うな。そこは神の御座(みざ)であるから。
また地をさして誓うな。そこは神の足台であるから。またエルサレムをさして誓うな。それは『大王の都』であるから。
また、自分の頭をさして誓うな。あなたは髪の毛一すじさえ、白くも黒くもすることができない。
あなたがたの言葉は、ただ、しかり、しかり、否、否、であるべきだ。それ以上に出ることは、悪から来るのである。」
「マタイによる福音書」第5章33節~37節

全く関係ないが、私は双子で、双子の弟は聖書なんかインチキで「イエスの再臨」なんかあり得ないと言っていて、もし「イエスの再臨」が起こったら自殺するそうである。誓いを果たせたら大したものである。笑 まぁ、70過ぎていて練炭自殺とかだったら楽だけどね。(「終わりの時」は20年後ぐらいと推理している。)

関係ないけど。
「それを彼は、ノストラダムスのもうひとつの原詩から明かしてみせる。『諸世紀』第1巻95。私の逐語訳ではこんな奇妙な詩。

僧院の前でふたごの片われが見つかる
老獪な僧侶の勇ましい血を享けて
信者たちにささえられた彼の名声 その言葉と権力
それによってその陰謀は惹き起こされる

(中略)フォンブリューヌもこうしたいままでの例にならい、現代語訳はごくおとなしく、左のようにまとめている。
“ふたごの片われの子が、ある僧院の前で見つかる/彼は老いた僧の高貴な血を引いている/彼の名声はそのパルティ(党)によって巨大となり、彼の言葉と権力も強大になる/人々は生きる望みを彼に託する”
 これではいつの、だれのことかわからない。また、わからないほうが原詩の難解さからみて自然である。しかし、フォンブリューヌは、ここでまた、恐るべき虚構のジャンプをこころみるのだ。
 それはやはり見出し。とんでもない見出しを彼は右の現代語訳の上にくっつける。彼自身の現代語訳とも原詩ともまったく関係ない、恥を知らないつぎの見出しを。
―――“アンテクリスト、仏教の僧の息子。またはゼン(禅)僧の息子。アンテクリスト、彼はふたごの片われだ”」
「ノストラダムスの大予言Ⅳ」五島勉著より
https://ameblo.jp/hitorinomeaki/entry-12408338967.html

「主の懲らしめは必ず起こる。大空がぐらぐら大揺れに揺れ、山々があちこちに動き出す日、その日こそ、天啓を嘘と見て、虚偽の泥沼に戯れていた人は哀れなものよ。彼らがゲヘナの火の中にぐいぐい突き落とされるその日。」
「コーラン」第52章の一部

ノストラダムスの予言詩・12巻ナンバー不明の詩
ふたつめの千年紀
王の息子が世紀の変わり目に、雷鳴とどろくなか、万人の前に姿を現す
怒り、戦争と疫病のガレキ、罪
魚は長き眠りののち、ふたたび力をとりもどす      寺島研次訳

ただし、公式にはこんな詩はないようである。https://www42.atwiki.jp/nostradamus/pages/172.html

おまけ