参考資料1933 | シフル・ド・ノストラダムス

シフル・ド・ノストラダムス

ノストラダムスの暗号解読

カインとアベルの話
「アダムとエバの間には、カインとアベルという男の子が生まれた。
 兄のカインは畑仕事がすきで、百姓の先祖になった。弟のアベルは羊を飼って、羊飼いの先祖になった。
 両親のアダムとエバは、いまは楽園から追いだされた身だったけれど、神の恩は決してわすれなかった。二人は石で祭壇をきずくと、その上に供物をささげて熱心に祈った。
 あるときカインは畑でとれたものを、アベルは新しく生まれた子羊をもってきて、この祭壇にささげた。ところが、どうしたわけか、エホバはカインのささげたおそなえものには目もくれないで、アベルのささげものだけをおうけになった。
 カインはそれを見て、神が弟をえこひいきなさるのだと思い―――カインでなくともそう思うだろう―――、おもわずふくれつらをして、目をふせた。
「おまえは、なぜ腹をたてて下をむくのか。正しいことをしているのなら、顔をまっすぐにあげたらよいだろう。」
 神は、カインをおしかりになった。でも、心のねじまがったカインは、ますます神をうらみ、弟のアベルをにくむばかりだった。そして、弟と一緒に野原へ出ていた時に、いきなりアベルを打ち殺してしまった。
 それを知った神は、カインをよんでおききになった。
「おまえの弟のアベルは、どこにいる?」
「そんなことを知るものですか。わたしは弟の番人じゃありませんからね」
と、カインはしらばっくれた。
 しかし、神はおっしゃった。
「おまえはおまえのしたことを、わたしの目から隠せると思っているのか。おまえの殺された弟の血が、土の中からわたしをよんでいるではないか。こんなひどい罪をおかしたからには、おまえが血を耕したところで、地は恵みを与えはしない。おまえは永久にこの土地を去って、ほかの土地をさすらうのだ。」
 こう言って神は、カインの額に罪のしるしを刻みつけて、カインを追いたてた。もっとも、エホバはカインをただ呪ったのではなく「およそカインを殺す者は7倍の罰をうけん」と言って、罪を悔いた彼を一面では保護されている。
 せっかく神がじぶんの姿に似せてつくった人間だけれど、どうしたわけか、人間のあいだには、こんなふうで、罪がたえなかった。神はだんだんと、人間をつくりだしたことを後悔するようになっていった。
 その間にも、アダムとエバには殺されたアベルの代りにセツが生まれ、その子孫は、どんどん地上にあふれてきた。
 カインの子孫もふえている。そして人間がふえるにつれて、悪いこともどんどんふえていく。人殺し、嘘つき、憎しみや争い。これは、アダムとエバが神に禁じられていた知恵の実を食べた罪、兄弟を殺したカインの罪の呪いなのか。「原罪」を犯したアダムや、弟を殺したカインの末裔である人間が考えることは、必然にすべて悪いことばかりになるのか。有島武郎に『カインの末裔』という作がある。
 神はとうとう人間をつくったことを後悔して、こうお考えになった。
「この地上から、わたしのつくりだした人間どもを拭いさってしまおう。人間だけでなく、鳥やけものまでも。そうだ、もう一度新しくやりなおすのだ!」
「聖書物語・旧約物語」山室静著より

感想
>カインはそれを見て、神が弟をえこひいきなさるのだと思い―――カインでなくともそう思うだろう―――、おもわずふくれつらをして、目をふせた。

人間というものは、生まれ付き平等ではない。例えば、美形は才能と言うが、美人に生まれただけで人生にはアドバンテージがあるだろう。遺伝や環境遺伝、または金持ちに生まれれば何をやるにも有利な事は言うまでもない。個人的には、それらが全くないのに努力と根性だけで何とかするのが格好良いと思うが。

「「平等」という言葉が好んで使われます。差異を認めたくないから、「平等」を強調するようになってしまう。しかし、「平等」という言葉を美化しすぎ、主張しすぎて、「不平等」に目をつぶってしまうという結果を招き、あげくの果てには、あるがままのものを見るという、見極める力を損なってしまっていることに気づいていない。たとえば、優秀な奴がいるとします。するとその人を応援するのではなく、特別扱いはいけないよ、というかたちで足をひっぱる人がいる。これなど、人間には能力差があるんだという事実を無視した最悪の平等主義といえます。
 1974年にノーベル経済学賞を受賞した経済学者フリードヒ・A・フォン・ハイエクという人はこんなふうに語っているそうです。
「人間はもともと不平等なのだから、平等に扱うべきだ」
 男と女、大きい小さいという差があります。男のほうが偉いとか、大きいことはいいことだなどと、どちらか一方に価値観を置いてしまうと、真の差別観を生んでしまう。
 どちらか一方にウェイトを置いて、つまり主観的に見るのでなく、あって当然の個体差を認め、あるがままを見ることで、はじめて見極める力が身につくようになるのです。
 言い換えれば、自然にある差、違いを認め、有るものが無いものを埋めるという感覚を身につけてこそ、ものごとの本質を見極める力というものがついてくる。運のある人とない人がいるように、個人差はあって当たり前ですが、そこを埋める努力をしなければいけないということです。
 というよりむしろ、差があるからこそ愛も生まれ、AさんではなくBさんが好きになったりもするのです。選ぶということも、結婚も、そこに差を見いだしているのです。この人凄いなと思えるからこそ、その人に何かしら学ぼうとする気持ちが生じてくる。差があることを素直に認めきれないと、見極める力が損なわれてしまうのです。
 嫉妬心や私欲が、あるがままのものを見られなくしてしまう。異性差のみならず、同性間にも個人差が、個体差があることを素直に認めることです。」
「雀鬼流。」桜井章一著より

>神は、カインをおしかりになった。でも、心のねじまがったカインは、ますます神をうらみ、弟のアベルをにくむばかりだった。そして、弟と一緒に野原へ出ていた時に、いきなりアベルを打ち殺してしまった。

全く関係ないが、数学者のガロアは神に愛された天才だったが、若干20歳で決闘によって死んでしまった。20歳ぐらいだと女の取り合いとかが大事なんだろうね。もったいない話である。https://matome.naver.jp/odai/2137882046015603401

>神はとうとう人間をつくったことを後悔して、こうお考えになった。
「この地上から、わたしのつくりだした人間どもを拭いさってしまおう。人間だけでなく、鳥やけものまでも。そうだ、もう一度新しくやりなおすのだ!」

これはノアの大洪水の事だが、真の「終わりの時」はちょっと違う。選民は携挙され、地上に残った者は直接神に殺されるからである。

「1 見よ、主の日が来る。その時あなたの奪われた物は、あなたの中で分かたれる。
2 わたしは万国の民を集めて、エルサレムを攻め撃たせる。町は取られ、家はかすめられ、女は犯され、町の半ばは捕えられて行く。しかし残りの民は町から断たれることはない。
3 その時、主は出てきて、いくさの日にみずから戦われる時のように、それらの国びとと戦われる。

12 エルサレムを攻撃したもろもろの民を、主は災をもって撃たれる。すなわち彼らはなお足で立っているうちに、その肉は腐れ、目はその穴の中で腐れ、舌はその口の中で腐れる。
13 その日には、主は彼らを大いにあわてさせられるので、彼らはおのおのその隣り人を捕え、手をあげてその隣り人を攻める。

9 主は全地の王となられる。その日には、主ひとり、その名一つのみとなる。」
「ゼカリヤ書」第14章1~3節,12節~13節,9節https://www.wordproject.org/bibles/jp/38/14.htm

わざとエルサレムを攻撃させ、超兵器で後悔させながら殺すのである。核兵器を使えば一瞬なのに、立ったまま体が腐る(異臭もするだろう)兵器や体が勝手に動いて仲間同士で殺し合いをさせる兵器を使うのである。念のため、どんなに慌てたって、訓練された兵士が仲間を攻撃する事は絶対にないだろう。http://shindenforest.blog.jp/archives/22071161.html

おまけ