参考資料1885 | シフル・ド・ノストラダムス

シフル・ド・ノストラダムス

ノストラダムスの暗号解読

マタイによる福音書 その53
「さて、イエスはエルサレムへ上るとき、十二弟子(でし)をひそかに呼びよせ、その途中で彼らに言われた、
「見よ、わたしたちはエルサレムへ上って行くが、人の子は祭司長、律法学者たちの手に渡されるであろう。彼らは彼に死刑を宣告し、
そして彼をあざけり、むち打ち、十字架につけさせるために、異邦人に引きわたすであろう。そして彼は三日目によみがえるであろう」。
そのとき、ゼベダイの子らの母が、その子らと一緒にイエスのもとにきてひざまずき、何事かをお願いした。
そこでイエスは彼女に言われた、「何をしてほしいのか」。彼女は言った、「わたしのこのふたりのむすこが、あなたの御国(みくに)で、ひとりはあなたの右に、ひとりは左にすわれるように、お言葉をください」。
イエスは答えて言われた、「あなたがたは、自分が何を求めているのか、わかっていない。わたしの飲もうとしている杯を飲むことができるか」。彼らは「できます」と答えた。
イエスは彼らに言われた、「確かに、あなたがたはわたしの杯を飲むことになろう。しかし、わたしの右、左にすわらせることは、わたしのすることではなく、わたしの父によって備えられている人々だけに許されることである」。
十人の者はこれを聞いて、このふたりの兄弟たちのことで憤慨した。
そこで、イエスは彼らを呼び寄せて言われた、「あなたがたの知っているとおり、異邦人の支配者たちはその民を治め、また偉い人たちは、その民の上に権力をふるっている。
あなたがたの間ではそうであってはならない。かえって、あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、仕える人となり、
あなたがたの間でかしらになりたいと思う者は、僕(しもべ)とならねばならない。
それは、人の子がきたのも、仕えられるためではなく、仕えるためであり、また多くの人のあがないとして、自分の命を与えるためであるのと、ちょうど同じである」。
それから、彼らがエリコを出て行ったとき、大ぜいの群衆がイエスに従ってきた。
すると、ふたりの盲人が道ばたにすわっていたが、イエスがとおって行かれると聞いて、叫んで言った、「主よ、ダビデの子よ、わたしたちをあわれんで下さい」。
群衆は彼らをしかって黙らせようとしたが、彼らはますます叫びつづけて言った、「主よ、ダビデの子よ、わたしたちをあわれんで下さい」。
イエスは立ちどまり、彼らを呼んで言われた、「わたしに何をしてほしいのか」。
彼らは言った、「主よ、目をあけていただくことです」。
イエスは深くあわれんで、彼らの目にさわられた。すると彼らは、たちまち見えるようになり、イエスに従って行った。」
「マタイによる福音書」第20章17節~34節

感想
>彼女は言った、「わたしのこのふたりのむすこが、あなたの御国(みくに)で、ひとりはあなたの右に、ひとりは左にすわれるように、お言葉をください」。
イエスは答えて言われた、「あなたがたは、自分が何を求めているのか、わかっていない。わたしの飲もうとしている杯を飲むことができるか」。彼らは「できます」と答えた。

イエスの飲もうとしている杯とはさらし者にされた上での磔刑である。イエスさえも悩んでいたのに、この二人に出来る訳がない。(とにかくイエスの弟子は根性なしが多い。)

「それから、イエスは彼らと一緒に、ゲツセマネという所へ行かれた。そして弟子たちに言われた、「わたしが向こうへ行って祈っている間、ここにすわっていなさい」。
そしてペテロとゼベダイの子ふたりとを連れて行かれたが、悲しみを催しまた悩みはじめられた。
そのとき、彼らに言われた、「わたしは悲しみのあまり死ぬほどである。ここに待っていて、わたしと一緒に目をさましていなさい」。
そして少し進んで行き、うつぶしになり、祈って言われた、「わが父よ、もしできることでしたらどうか、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの思いのままにではなく、みこころのままになさって下さい」。
それから、弟子たちの所にきてごらんになると、彼らが眠っていたので、ペテロに言われた、「あなたがたはそんなに、ひと時もわたしと一緒に目をさましていることが、できなかったのか。
誘惑に陥らないように、目をさまして祈っていなさい。心は熱しているが、肉体が弱いのである」。
また二度目に行って、祈って言われた、「わが父よ、この杯を飲むほかに道がないのでしたら、どうか、みこころが行われますように」。
またきてごらんになると、彼らはまた眠っていた。その目が重くなっていたのである。
それで彼らをそのままにして、また行って、三度目に同じ言葉で祈られた。
それから弟子たちの所に帰ってきて、言われた「まだ眠っているのか、休んでいるのか。見よ、時が迫った。人の子は罪人(つみびと)らの手に渡されるのだ。
立て、さあ行こう。見よ、わたしを裏切る者が近づいてきた」。」
「マタイによる福音書」第26章36節~46節

「杯」が磔刑を表している事は明らかだろう。それにしてもイエスの弟子はダメだねぇ。

>イエスは彼らに言われた、「確かに、あなたがたはわたしの杯を飲むことになろう。

これは、ぶどう酒と艱難のダブルミーニングと思われる。

「一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、祝福してこれをさき、弟子たちに与えて言われた、「取って食べよ、これはわたしのからだである」。
また杯を取り、感謝して彼らに与えて言われた、「みな、この杯から飲め。
これは、罪のゆるしを得させるようにと、多くの人のために流すわたしの契約の血である。
あなたがたに言っておく。わたしの父の国であなたがたと共に、新しく飲むその日までは、わたしは今後決して、ぶどうの実から造ったものを飲むことをしない」。
彼らは、さんびを歌った後、オリブ山へ出かけて行った。
そのとき、イエスは弟子たちに言われた、「今夜、あなたがたは皆わたしにつまずくであろう。『わたしは羊飼を打つ。そして、羊の群れは散らされるであろう』と、書いてあるからである。
「マタイによる福音書」第26章26節~31節

一応、後半の原文は、

「万軍の主は言われる、「つるぎよ、立ち上がってわが牧者を攻めよ。わたしの次に立つ人を攻めよ。牧者を撃て、その羊は散る。わたしは手をかえして、小さい者どもを攻める。主は言われる、全地の人の三分の二は断たれて死に、三分の一は生き残る。わたしはこの三分の一を火の中に入れ、銀をふき分けるように、これをふき分け、金を精錬するように、これを精錬する。彼らはわたしの名を呼び、わたしは彼らに答える。わたしは『彼らはわが民である』と言い、彼らは『主はわが神である』と言う」。」
旧約聖書「ゼカリヤ書」第13章7節~9節

これは、真の「終わりの時」の話だろう。「契約の使者」(真理の御霊)が現れたとしても、相当な覚悟が必要である。ただし、選民になるには必要な事なのだろう。

>しかし、わたしの右、左にすわらせることは、わたしのすることではなく、わたしの父によって備えられている人々だけに許されることである。

真の「終わりの時」には十二使徒が現れると考えているが、ろくな事がない事は(上から)明白である。ただし、彼らは自分の事なんか全く考えないで、千年王国を作り上げる事だけを考えるだろう。多分、「契約の使者」(真理の御霊)はペテロの位置。https://ameblo.jp/hitorinomeaki/entry-12396666314.html
(「契約の使者」が本物の「岩」という事。)

「わたしにむかって、『主よ、主よ』と言う者が、みな天国にはいるのではなく、ただ、天にいますわが父の御旨(みむね)を行う者だけが、はいるのである。
その日には、多くの者が、わたしにむかって『主よ、主よ、わたしたちはあなたの名によって預言したではありませんか。また、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって多くの力あるわざを行ったではありませんか』と言うであろう。
そのとき、わたしは彼らにはっきり、こう言おう、『あなたがたを全く知らない。不法を働く者どもよ、行ってしまえ』。
それで、わたしのこれらの言葉を聞いて行うものを、岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができよう。
雨が降り、洪水(こうずい)が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけても、倒れることはない。岩を土台としているからである。
また、わたしのこれらの言葉を聞いても行わない者を、砂の上に自分の家を建てた愚かな人に比べることができよう。
雨が降り、洪水(こうずい)が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけると、倒れてしまう。そしてその倒れ方はひどいのである」。
イエスがこれらの言(ことば)を語り終えられると、群衆はその教にひどく驚いた。
それは律法学者たちのようにではなく、権威ある者のように、教えられたからである。」
「マタイによる福音書」第7章21節~29節

信じる信じないはあなた次第です。笑

>あなたがたの間ではそうであってはならない。かえって、あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、仕える人となり、
あなたがたの間でかしらになりたいと思う者は、僕(しもべ)とならねばならない。

真の「終わりの時」の話である。現代では、へりくだるには何か力を持たないとダメかもしれない。

おまけ