マタイによる福音書 その47
「そのとき、弟子たちがイエスのもとにきて言った、「いったい、天国ではだれがいちばん偉いのですか」。
すると、イエスは幼な子を呼び寄せ、彼らのまん中に立たせて言われた、
「よく聞きなさい。心をいれかえて幼な子のようにならなければ、天国にはいることはできないであろう。
この幼な子のように自分を低くする者が、天国でいちばん偉いのである。
また、だれでも、このようなひとりの幼な子を、わたしの名のゆえに受けいれる者は、わたしを受けいれるのである。
しかし、わたしを信ずるこれらの小さい者のひとりをつまずかせる者は、大きなひきうすを首にかけられて海の深みに沈められる方が、その人の益になる。
この世は、罪の誘惑があるから、わざわいである。罪の誘惑は必ず来る。しかし、それをきたらせる人は、わざわいである。
もしあなたの片手または片足が、罪を犯させるなら、それを切って捨てなさい。両手、両足がそろったままで、永遠の火に投げ込まれるよりは、片手、片足になって命に入る方がよい。
もしあなたの片目が罪を犯させるなら、それを抜き出して捨てなさい。両眼がそろったままで地獄の火に投げ入れられるよりは、片目になって命に入る方がよい。
あなたがたは、これらの小さい者のひとりをも軽んじないように、気をつけなさい。あなたがたに言うが、彼らの御使(みつかい)たちは天にあって、天にいますわたしの父のみ顔をいつも仰いでいるのである。
[人の子は、滅びる者を救うためにきたのである。]」
「マタイによる福音書」第18章1節~11節
感想
>そのとき、弟子たちがイエスのもとにきて言った、「いったい、天国ではだれがいちばん偉いのですか」。
すると、イエスは幼な子を呼び寄せ、彼らのまん中に立たせて言われた、
「よく聞きなさい。心をいれかえて幼な子のようにならなければ、天国にはいることはできないであろう。
この幼な子のように自分を低くする者が、天国でいちばん偉いのである。
本当の子供は素直な面もあるが、わがままな面もあるから、他の箇所で使われている「へりくだった」人だろう。ただし、気の小ささから優しい人は絶対的優位な立場に立ったりすると、つい本性を現してしまうから見極めが大事である。
>しかし、わたしを信ずるこれらの小さい者のひとりをつまずかせる者は、大きなひきうすを首にかけられて海の深みに沈められる方が、その人の益になる。
オウム真理教の「ポア」みたいな発想だな。
>もしあなたの片手または片足が、罪を犯させるなら、それを切って捨てなさい。両手、両足がそろったままで、永遠の火に投げ込まれるよりは、片手、片足になって命に入る方がよい。
もしあなたの片目が罪を犯させるなら、それを抜き出して捨てなさい。両眼がそろったままで地獄の火に投げ入れられるよりは、片目になって命に入る方がよい。
イエスは比喩ではなく本気で言っているのだろう。当時の信者は「永遠の生命」を信じていたし、イエスの起こす奇跡(神霊治療)も関係しているのかもしれない。
「わたしのいましめは、これである。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互に愛し合いなさい。
人がその友のために自分の命を捨てること、これよりも大きな愛はない。
あなたがたにわたしが命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。
わたしはもう、あなたがたを僕(しもべ)とは呼ばない。僕は主人のしていることを知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼んだ。わたしの父から聞いたことを皆、あなたがたに知らせたからである。
あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだのである。そして、あなたがたを立てた。それは、あなたがたが行って実をむすび、その実がいつまでも残るためであり、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものはなんでも、父が与えて下さるためである。
これらのことを命じるのは、あなたがたが互に愛し合うためである。」
「ヨハネによる福音書」第15章12節~17節
これも死んでもイエスを信じる者は復活するという信念のもとに述べているのだろう。因みに、私は愛とか信じていないが、天変地異や戦争でも起これば「艱難汝を玉にす」でアガペーに近いような愛が現れるのかもしれないと思っている。
「そのとき、多くの人がつまずき、また互に裏切り、憎み合うであろう。
また多くのにせ預言者が起って、多くの人を惑わすであろう。
また不法がはびこるので、多くの人の愛が冷えるであろう。
しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。
そしてこの御国(みくに)の福音は、すべての民に対してあかしをするために、全世界に宣(の)べ伝えられるであろう。そしてそれから最後が来るのである。
その時には、世の初めから現在に至るまで、かつてなく今後もないような大きな患難が起るからである。
もしその期間が縮められないなら、救われる者はひとりもないであろう。しかし、選民のためには、その期間が縮められるであろう。」
「マタイによる福音書」第24章10節~14節,21節~22節
補足
「話は、昭和四年のこと。
梅路見鸞老師はその頃、弟子の一人の縁で、モダンガールの見本のような美人の若い女性を手許に預かっておられた。人は馴れてくるとずうずうしくなるもので、この女性も、やはり生来のでしゃばりがそろそろ頭をもたげてきたようで、ことあるごとに口を出して、かきまわすようになってきた。
老師から、
「可愛がってやれ」
といわれていた奥様も、さすがに堪忍袋の緒が切れて、手きびしい一言を口にしてしまったのだった。
ところが、このことを聞かれた老師は、
「お前たちは終始一貫、人を可愛がりきらぬから往々にして道を誤る。一度愛するときめれば、相手が信じようが、従おうが背こうが、自分はいささかも変わるべきではない。人の向背によって真の心を乱されるようなことでは、どもならぬ。それは可愛がりようが足らぬからだ」
と、奥様のほうを叱責されたのである。
(中略)
老師は、奥様に向かって、こういわれたのである。
「お前はいうであろう。可愛がっていたけれど、あんまりだから、と。相手の出方によって変わるお前の親切は真の親切ではない。お前に真実、心の奥底からの親切があるのかないのか、それをしっかりたしかめてみよ」
奥様は、老師のいう
「心の奥底からの親切の有無」
の問題と対決されることになったのだ。
奥様は、夫である老師へ懸命につとめてきたつもりの愛さえも、真の愛でないかもしれない、「妻としての資格の有無を問われたのだ。この問題が解決できなければ、私は老師の妻として資格がないことになる」
などと、思い悩む必死の苦闘の日々の始まりだった。
「今まで真の愛だと思い、真の親切だと思っていた自分の心や行ないが、掘り下げれば掘り下げるほど、利己的なものであり、あさましいものであること」
に奥様は気づかれたのである。さらに、
「その醜い自分と比較して、老師の親切や愛の行動が一分の利己的なものもなく、純一無雑(純粋なこと)な無私のものであることが、ひしひしと胸に迫ってきた」
のだった。
「どうすればこのあさましい自我を捨てることができるか、捨てようとすればするほど離れることができない自我」
に、日夜さいなまれた奥様は、一ヵ月足らずの間に16貫以上もあった体重が、まるで糸のようにやせ衰えて、見るも悲愴であった。
その間、老師はといえば、
「寂光(解脱した境地の真理による発する光)というべきか、ますます冷たく冷えわたる寒月の如き有様であった」
そんなある夜のことである。ちょうどその夜は「精射会」の日で、丸山先生(老師の弟子)を含む2~3人の弟子たちが残っていて、勝手(台所)の火鉢のかたわらにいた。
力尽きた奥様は、死を決心して老師の前に出られたのである。
奥様は、姿勢を正して、こういった。
「私のようなものを永らく妻として置いて下さいまして、もったいのうございます」
「妻だと・・・・おれは今日までお前を妻だと思ったことはない。お前は今夜死ぬかもしれぬし、また何十年生きるかもしれぬが、おそらく今後も妻だとは思わぬであろう。ただ一緒に暮して子を持つ縁によらねば救うことのできぬ、おれの肩にかかった衆生に外ならぬ、弟子とかのお同行といってもよい、おれの妻たるべきものはおれの心をよく知って、おれの心と同じうなった者、男ともあれ女ともあれ、それがおれの妻だ」
と、老師は吐き出すようにいったのである。
しばらくして奥様は独り言のように、
「弓も引かせられず・・・・(弓も引かせていただけないで・・・・)」
「弓を引いて悟れると思うか、死んで行くものに弓がいるか」
そう言い残して、老師は、そのまま床に入られたのである。やがて、安らかな寝息が聞こえてきたという。
老師の物に動じない風格に圧倒されながら、弟子たちはどうなることかとハラハラしながら、かたずを飲んで見守っていた。
「しばらくすると奥様は、火鉢のかたわらに坐られた。さすがに丸山先生も蒼然たる面持で眼を伏せられていた。丸山先生は奥様の死の決心をよく看破されていた。十分間ほども沈黙が続いた。奥様のお顔は実に安らかであり、清浄そのもので、神々しいくらいであった」
丸山先生が、
「奥様、死なれるのもよいでしょう。しかしお子様方のことはお気にかかりませんか」
とようやく語りかけると、奥様は、こう答えたのである。
「子供は限りなく可愛ゆうございますが、あさましい心の私が育てて染めるより、仏のような心の主人が育てるほうが、子供のために幸福だと思います。主人がおりますから少しも心にかかりません・・・・」
「そうですか・・・・」
しばらくして弟子たちは、これが奥様との今生のお別れかもしれないと思いながらも、いつものように奥様を見送られて、帰って行った。
のちに、丸山先生は、
「人間が心の尊い苦しみから死に想到すれば、実に清浄そのものである。あの時の奥様の安らかさ、明朗さ、神々しさは、とうてい人間として見ることができないもの」
であったと、繰り返し語ったという。
翌朝になった。奥様は、昨夜とは打って変わって、血色もよく、明るく台所で働いておられた。
老師が笑いながら、
「お前の親切はどうなった?」
と尋ねられると、
「ホッホッホ」
奥様は、ただ笑われただけであった。
奥様は、「これ心無相(執着を離れた境地)」を大悟されたのである。」
「雀鬼と陽明」林田明大著より
おまけ