参考資料1847 | シフル・ド・ノストラダムス

シフル・ド・ノストラダムス

ノストラダムスの暗号解読

マタイによる福音書 その25
「わたしがあなたがたをつかわすのは、羊をおおかみの中に送るようなものである。だから、へびのように賢く、はとのように素直であれ。
人々に注意しなさい。彼らはあなたがたを衆議所に引き渡し、会堂でむち打つであろう。
またあなたがたは、わたしのために長官たちや王たちの前に引き出されるであろう。それは、彼らと異邦人とに対してあかしをするためである。
彼らがあなたがたを引き渡したとき、何をどう言おうかと心配しないがよい。言うべきことは、その時に授けられるからである。
語る者は、あなたがたではなく、あなたがたの中にあって語る父の霊である。
兄弟は兄弟を、父は子を殺すために渡し、また子は親に逆らって立ち、彼らを殺させるであろう。
またあなたがたは、わたしの名のゆえにすべての人に憎まれるであろう。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。
一つの町で迫害されたなら、他の町へ逃げなさい。よく言っておく。あなたがたがイスラエルの町々を回り終らないうちに、人の子は来るであろう。
弟子(でし)はその師以上のものではなく、僕(しもべ)はその主人以上の者ではない。
弟子がその師のようであり、僕がその主人のようであれば、それで十分である。もし家の主人がベルゼブルと言われるならば、その家の者どもはなおさら、どんなにか悪く言われることであろう。
だから彼らを恐れるな。おおわれたもので、現れてこないものはなく、隠れているもので、知られてこないものはない。
わたしが暗やみであなたがたに話すことを、明るみで言え。耳にささやかれたことを、屋根の上で言いひろめよ。
また、からだを殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、からだも魂も地獄で滅ぼす力のあるかたを恐れなさい。
二羽(わ)のすずめは一アサリオンで売られているではないか。しかもあなたがたの父の許しがなければ、その一羽も地に落ちることはない。
またあなたがたの頭の毛までも、みな数えられている。
それだから、恐れることはない。あなたがたは多くのすずめよりも、まさった者である。
だから人の前でわたしを受けいれる者を、わたしもまた、天にいますわたしの父の前で受けいれるであろう。
しかし、人の前でわたしを拒む者を、わたしも天にいますわたしの父の前で拒むであろう。」
「マタイによる福音書」第10章16節~33節

感想
>だから、へびのように賢く、はとのように素直であれ。

賢い人は本心を隠したりするので、素直ではないだろう。素直である事は子供のような状態なのだろうか。その理由は、「言うべきことは、その時に授けられるからである。語る者は、あなたがたではなく、あなたがたの中にあって語る父の霊である」とあり、子供のように素直でないと受け取れないのではないだろうか。

補足
「そのとき、弟子たちがイエスのもとにきて言った、「いったい、天国ではだれがいちばん偉いのですか」。
すると、イエスは幼な子を呼び寄せ、彼らのまん中に立たせて言われた、
「よく聞きなさい。心をいれかえて幼な子のようにならなければ、天国にはいることはできないであろう。
この幼な子のように自分を低くする者が、天国でいちばん偉いのである。」
「マタイによる福音書」第18章1節~4節

>またあなたがたは、わたしのために長官たちや王たちの前に引き出されるであろう。それは、彼らと異邦人とに対してあかしをするためである。

パウロの事を思い出した。

「フェストは、彼らのあいだに八日か十日ほど滞在した後、カイザリヤに下って行き、その翌日、裁判の席について、パウロを引き出すように命じた。
パウロが姿をあらわすと、エルサレムから下ってきたユダヤ人たちが、彼を取りかこみ、彼に対してさまざまの重い罪状を申し立てたが、いずれもその証拠をあげることはできなかった。
パウロは「わたしは、ユダヤ人の律法に対しても、宮に対しても、またカイザルに対しても、なんら罪を犯したことはない」と弁明した。
ところが、フェストはユダヤ人の歓心を買おうと思って、パウロにむかって言った、「おまえはエルサレムに上り、この事件に関し、わたしからそこで裁判を受けることを承知するか」。
パウロは言った、「わたしは今、カイザルの法廷に立っています。わたしはこの法廷で裁判されるべきです。よくご承知のとおり、わたしはユダヤ人たちに、何も悪いことをしてはいません。
もしわたしが悪いことをし、死に当るようなことをしているのなら、死を免れようとはしません。しかし、もし彼らの訴えることに、なんの根拠もないとすれば、だれもわたしを彼らに引き渡す権利はありません。わたしはカイザルに上訴します」。
そこでフェストは、陪審の者たちと協議したうえ答えた、「おまえはカイザルに上訴を申し出た。カイザルのところに行くがよい」。」
「使徒行伝」第25章6節~12節

ここではまだ、カイザル(皇帝)の前には立っていない。

「翌日、アグリッパとベルニケとは、大いに威儀をととのえて、千卒長たちや市の重立った人たちと共に、引見所にはいってきた。すると、フェストの命によって、パウロがそこに引き出された。
そこで、フェストが言った、「アグリッパ王、ならびにご臨席の諸君。ごらんになっているこの人物は、ユダヤ人たちがこぞって、エルサレムにおいても、また、この地においても、これ以上、生かしておくべきでないと叫んで、わたしに訴え出ている者である。
しかし、彼は死に当ることは何もしていないと、わたしは見ているのだが、彼自身が皇帝に上訴すると言い出したので、彼をそちらへ送ることに決めた。
ところが、彼について、主君に書きおくる確かなものが何もないので、わたしは、彼を諸君の前に、特に、アグリッパ王よ、あなたの前に引き出して、取調べをしたのち、上書すべき材料を得ようと思う。
囚人を送るのに、その告訴の理由を示さないということは、不合理だと思えるからである」。」
「使徒行伝」第25章23節~27節

大部省略で、

「みんなの者は、長いあいだ食事もしないでいたが、その時、パウロが彼らの中に立って言った、「皆さん、あなたがたが、わたしの忠告を聞きいれて、クレテから出なかったら、このような危害や損失を被らなくてすんだはずであった。
だが、この際、お勧めする。元気を出しなさい。舟が失われるだけで、あなたがたの中で生命を失うものは、ひとりもいないであろう。
昨夜、わたしが仕え、また拝んでいる神からの御使(みつかい)が、わたしのそばに立って言った、
パウロよ、恐れるな。あなたは必ずカイザルの前に立たなければならない。たしかに神は、あなたと同船の者を、ことごとくあなたに賜わっている』。
だから、皆さん、元気を出しなさい。万事はわたしに告げられたとおりに成って行くと、わたしは、神かけて信じている。
われわれは、どこかの島に打ちあげられるに相違ない」。」
「使徒行伝」第27章21節~26節

「使徒行伝」には載っていないが、その後、皇帝に処刑されたらしい。http://hh05.cocolog-nifty.com/blog/2012/08/1-0120.html(一番下の所。)

ただし、パウロは「神の計画」的な使命は果たしたと思う。

「パウロの時代はすでにネロ皇帝でしたから、自分が「キュリオス」(主)と呼ばれることを当然のように求めるネロのいるローマでイエスが主であることをあかしすることは、やがてローマのクリスチャンがどのような立場に立たせられるか容易に察せられます。実際、A.D.60年の「ローマの大火」によって、イエスを「主」(キュリオス)と告白するキリスト者に対する迫害が火ぶたを切ります。そのようなローマに、予め神によってパウロが遣わされて、そこでも主イエス・キリストをあかしすることは、深い神の摂理が隠されていたのです。」
引用元:http://meigata-bokushin.secret.jp/index.php?%E3%82%AB%E3%82%A4%E3%82%B6%E3%83%AA%E3%83%A4%282%29%20%20%E3%82%AB%E3%82%A4%E3%82%B6%E3%83%AB%E3%81%AB%E4%B8%8A%E8%A8%B4%E3%81%97%E3%81%9F%E3%83%91%E3%82%A6%E3%83%AD

裏を返せば、運命の人は死ぬべき時が来るまでは死ねないという事だろう。

>兄弟は兄弟を、父は子を殺すために渡し、また子は親に逆らって立ち、彼らを殺させるであろう。
またあなたがたは、わたしの名のゆえにすべての人に憎まれるであろう。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。

第24章にもこういうのはあるね。

「またオリブ山ですわっておられると、弟子たちが、ひそかにみもとにきて言った、「どうぞお話しください。いつ、そんなことが起るのでしょうか。あなたがまたおいでになる時や、世の終りには、どんな前兆がありますか」。
そこでイエスは答えて言われた、「人に惑わされないように気をつけなさい。
多くの者がわたしの名を名のって現れ、自分がキリストだと言って、多くの人を惑わすであろう。
また、戦争と戦争のうわさとを聞くであろう。注意していなさい、あわててはいけない。それは起らねばならないが、まだ終りではない。
民は民に、国は国に敵対して立ち上がるであろう。またあちこちに、ききんが起り、また地震があるであろう。
しかし、すべてこれらは産みの苦しみの初めである。
そのとき人々は、あなたがたを苦しみにあわせ、また殺すであろう。またあなたがたは、わたしの名のゆえにすべての民に憎まれるであろう。
そのとき、多くの人がつまずき、また互に裏切り、憎み合うであろう。
また多くのにせ預言者が起って、多くの人を惑わすであろう。
また不法がはびこるので、多くの人の愛が冷えるであろう。
しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。
そしてこの御国(みくに)の福音は、すべての民に対してあかしをするために、全世界に宣(の)べ伝えられるであろう。そしてそれから最後が来るのである。」
「マタイによる福音書」第24章3節~14節

>おおわれたもので、現れてこないものはなく、隠れているもので、知られてこないものはない。

個人的には、インターネット時代の到来の予言と考えている。イエスは「天の父」の教えをそのまま教えているので、真の意味は分かっていなかったと思うが。

「2.おおいかぶされたもので、現れてこないものはなく、隠れているもので、知られてこないものはない。
3.だから、あなたがたが暗やみで言ったことは、なんでもみな明るみで聞かれ、密室で耳にささやいたことは、屋根の上で言いひろめられるであろう。」
「ルカによる福音書」第12章2節~3節

>わたしが暗やみであなたがたに話すことを、明るみで言え。耳にささやかれたことを、屋根の上で言いひろめよ。

「ルカによる福音書」と違って「わたし(イエス)が話すこと」となっているが、こっちの方が間違いだろう。ただし、シンクロニシティーとして「イエスの真意」を誰かがインターネットで流すのかもしれない。

>二羽(わ)のすずめ

楡野鈴愛?https://c63amg-young.com/2018/02/01/nireno_model/

>だから人の前でわたしを受けいれる者を、わたしもまた、天にいますわたしの父の前で受けいれるであろう。
しかし、人の前でわたしを拒む者を、わたしも天にいますわたしの父の前で拒むであろう。

人っていうのは、他人にどう思われるかが非常に気になる生き物なので、そうとう器が大きくないとその役目はこなせないだろう。

おまけ