参考資料1672 | シフル・ド・ノストラダムス

シフル・ド・ノストラダムス

ノストラダムスの暗号解読

ヘブル人への手紙 その6
「1.それだから、神の安息にはいるべき約束が、まだ存続しているにかかわらず、万一にも、はいりそこなう者が、あなたがたの中から出ることがないように、注意しようではないか。
2.というのは、彼らと同じく、わたしたちにも福音が伝えられているのである。しかし、その聞いた御言(みことば)は、彼らには無益であった。それが、聞いた者たちに、信仰によって結びつけられなかったからである。
3.ところが、わたしたち信じている者は、安息にはいることができる。それは、
「わたしが怒って、
彼らをわたしの安息に、はいらせることはしないと、誓ったように」
と言われているとおりである。しかも、みわざは世の初めに、でき上がっていた。
4.すなわち、聖書のある箇所で、七日目(なぬかめ)のことについて、「神は、七日目にすべてのわざをやめて休まれた」と言われており、
5.またここで、「彼らをわたしの安息に、はいらせることはしない」と言われている。
6.そこで、その安息にはいる機会が、人々になお残されているのであり、しかも、初めに福音を伝えられた人々は、不従順のゆえに、はいることをしなかったのであるから、
7.神は、あらためて、ある日を「きょう」として定め、長く時がたってから、先に引用したとおり、
「きょう、み声を聞いたなら、
あなたがたの心を、かたくなにしてはいけない」
とダビデをとおして言われたのである。」
「ヘブル人への手紙」第4章1節~7節

感想
昨日の所を再び読んでみるとよく分かる。https://ameblo.jp/hitorinomeaki/entry-12345167849.html

>「わたしが怒って、
彼らをわたしの安息に、はいらせることはしないと、誓ったように」
と言われているとおりである。
>「きょう、み声を聞いたなら、
あなたがたの心を、かたくなにしてはいけない」
とダビデをとおして言われたのである。

原文は、「詩篇」第95篇のようである。

「95:7 主はわれらの神であり、われらはその牧の民、そのみ手の羊である。どうか、あなたがたは、きょう、そのみ声を聞くように。
95:8 あなたがたは、メリバにいた時のように、また荒野のマッサにいた日のように、心をかたくなにしてはならない。
95:9 あの時、あなたがたの先祖たちはわたしのわざを見たにもかかわらず、わたしを試み、わたしをためした。
95:10 わたしは四十年の間、その代をきらって言った、「彼らは心の誤っている民であって、わたしの道を知らない」と。
95:11 それゆえ、わたしは憤って、彼らはわが安息に入ることができないと誓った。」
「詩篇」第95篇7節~11節

>95:10 わたしは四十年の間、その代(よ)をきらって言った、「彼らは心の誤っている民であって、わたしの道を知らない」と。

あまり関係ないかもしれないが、こんな事を連想した。

「それは太子の「不思議ノ記文」と呼ばれていた古文書の切れっぱしで、正成や尊氏のことを記録した「太平記」によると、こんなこと(原文は漢文)が書いてあった。
「人王九十六代(九十五代と書かれた断片もある)に当たり、天下一たび乱れて主安からず。この時東魚来たりて四海を呑む。日、西天に没すること三百七十余日、西鳥着たりて東魚を食らう。そののち、海内一に帰すること三年、ミコウのごときもの天下をかすむる事三十余年、大凶変じて一元に帰すなり」
・・・・ただしこのほかに、まったく新しい第二の読み方がある。ときどきアドバイスを受ける暗号の専門家と私が話しあい、そこからヒントを得た読み方だ。それは上の記文の最初の言葉「人王九十六代」が、ほんとは何をさすのか、ということである。まず、これが太子自身の記した言葉だったという前提で考える。と、太子は天皇をとても尊敬し、必ず「皇」や「帝」という言葉で呼んでいた、ということが分かってくる。では、そんなに天皇を尊んだ人が、わざわざ予言文で、将来の天皇に対して、「人王」なんて一段下の言葉を使うだろうか。そうは考えられない。・・・・いままでの解釈では、この「主」を天皇または後醍醐帝と取っている。日本の古文書にそう書かれていればそう取るのも無理もない。またたしかに太平記のころ、天皇の敬称として、「お上」や「主上」という言い方はあった。しかし、もったいなくもそれを略して、「主」とはけっして言わなかった。飛鳥時代にも、天皇のことを「みかど」とか「すめらみこと」とは呼んだが、間違っても「主」と呼びすてにはしなかった。だから当時、「主」という言葉が聖徳太子のまわりにあったとすれば、それはユダヤ人または景教の教師が教えた旧約聖書の中の「主」という呼び名だけなのだ。それが(天下の乱れによって)「安からず」というのは、「主」つまりユダヤの神またはキリスト教の神が、そのとき安らかでない状態になること、ユダヤの神やキリストを悩ませるような「天下の乱れ」が起こることを示している。」      
「聖徳太子「未来記」の秘予言」五島勉著より

因みに、五島勉氏は1996年と解釈した。ついでに「詩篇」第96篇も抜き書きしておこう。

「96:1 新しい歌を主にむかってうたえ。全地よ、主にむかってうたえ。
96:2 主にむかって歌い、そのみ名をほめよ。日ごとにその救を宣べ伝えよ。
96:3 もろもろの国の中にその栄光をあらわし、もろもろの民の中にそのくすしきみわざをあらわせ。
96:4 主は大いなる神であって、いともほめたたうべきもの、もろもろの神にまさって恐るべき者である。
96:5 もろもろの民のすべての神はむなしい。しかし主はもろもろの天を造られた。
96:6 誉と、威厳とはそのみ前にあり、力と、うるわしさとはその聖所にある。
96:7 もろもろの民のやからよ、主に帰せよ、栄光と力とを主に帰せよ。
96:8 そのみ名にふさわしい栄光を主に帰せよ。供え物を携えてその大庭にきたれ。
96:9 聖なる装いをして主を拝め、全地よ、そのみ前におののけ。
96:10 もろもろの国民の中に言え、「主は王となられた。世界は堅く立って、動かされることはない。主は公平をもってもろもろの民をさばかれる」と。
96:11 天は喜び、地は楽しみ、海とその中に満ちるものとは鳴りどよめき、
96:12 田畑とその中のすべての物は大いに喜べ。そのとき、林のもろもろの木も主のみ前に喜び歌うであろう。
96:13 主は来られる、地をさばくために来られる。主は義をもって世界をさばき、まことをもってもろもろの民をさばかれる。」
「詩篇」第96篇全体

第4節と10節から、再臨する主(イエス)は「恐怖の大王」と考えられるだろう。ただし、13節からダブルミーニングの可能性もある。何しろ、再臨するイエスは怒りをもって選民以外の全て滅ぼすので、「義によって裁く」のは(イエスの再臨の)準備をする「真理の御霊」と考えられるからである。

「08:50わたしは、自分の栄光は求めていない。わたしの栄光を求め、裁きをなさる方が、ほかにおられる。」
「ヨハネによる福音書」第8章50節(新共同訳)

「8.それがきたら、罪と義とさばきとについて、世の人の目を開くであろう。
9.罪についてと言ったのは、彼らがわたしを信じないからである。
10.義についてと言ったのは、わたしが父のみもとに行き、あなたがたは、もはやわたしを見なくなるからである。
11.さばきについてと言ったのは、この世の君がさばかれるからである。
12.わたしには、あなたがたに言うべきことがまだ多くあるが、あなたがたは今はそれに堪えられない。
13.けれども真理の御霊(みたま)が来る時には、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれるであろう。それは自分から語るのではなく、その聞くところを語り、きたるべき事をあなたがたに知らせるであろう。
14.御霊はわたしに栄光を得させるであろう。わたしのものを受けて、それをあなたがたに知らせるからである。」
「ヨハネによる福音書」第16章8節~14節

補足
「1主はわが主に言われる、「わたしがあなたのもろもろの敵をあなたの足台とするまで、わたしの右に座せよ」と。
2 主はあなたの力あるつえをシオンから出される。あなたはもろもろの敵のなかで治めよ。
3 あなたの民は、あなたがその軍勢を聖なる山々に導く日に心から喜んでおのれをささげるであろう。あなたの若者は朝の胎から出る露のようにあなたに来るであろう。
4 主は誓いを立てて、み心を変えられることはない、「あなたはメルキゼデクの位にしたがってとこしえに祭司である」。
5 主はあなたの右におられて、その怒りの日に王たちを打ち破られる。
6 主はもろもろの国のなかでさばきを行い、しかばねをもって満たし、広い地を治める首領たちを打ち破られる。
7 彼は道のほとりの川からくんで飲み、それによって、そのこうべをあげるであろう。」
「詩篇」第110篇1節~7節
https://ameblo.jp/hitorinomeaki/entry-12343583915.html

おまけ