参考資料1670 | シフル・ド・ノストラダムス

シフル・ド・ノストラダムス

ノストラダムスの暗号解読

ヘブル人への手紙 その4
「1.そこで、天の召しにあずかっている聖なる兄弟たちよ。あなたがたは、わたしたちが告白する信仰の使者また大祭司なるイエスを、思いみるべきである。
2.彼は、モーセが神の家の全体に対して忠実であったように、自分を立てたかたに対して忠実であられた。
3.おおよそ、家を造る者が家そのものよりもさらに尊ばれるように、彼は、モーセ以上に、大いなる光栄を受けるにふさわしい者とされたのである。
4.家はすべて、だれかによって造られるものであるが、すべてのものを造られたかたは、神である。
5.さて、モーセは、後に語らるべき事がらについてあかしをするために、仕える者として、神の家の全体に対して忠実であったが、
6.キリストは御子(みこ)として、神の家を治めるのに忠実であられたのである。もしわたしたちが、望みの確信と誇とを最後までしっかりと持ち続けるなら、わたしたちは神の家なのである。
7.だから、聖霊が言っているように、
「きょう、あなたがたがみ声を聞いたなら、
8. 荒野における試錬の日に、
神にそむいた時のように、
あなたがたの心を、かたくなにしてはいけない。
9. あなたがたの先祖たちは、
そこでわたしを試みためし、
10. しかも、四十年の間わたしのわざを見たのである。
だから、わたしはその時代の人々に対して、
いきどおって言った、
彼らの心は、いつも迷っており、
彼らは、わたしの道を認めなかった。
11. そこで、わたしは怒って、彼らをわたしの安息にはいらせることはしない、と誓った」。」
「ヘブル人への手紙」第3章1節~11節

感想
>3.おおよそ、家を造る者が家そのものよりもさらに尊ばれるように、彼は、モーセ以上に、大いなる光栄を受けるにふさわしい者とされたのである。

「ヨハネによる福音書」第5章にはこんな文章がある。

「39.あなたがたは、聖書の中に永遠の命があると思って調べているが、この聖書は、わたしについてあかしをするものである。
40.しかも、あなたがたは、命を得るためにわたしのもとにこようともしない。
41.わたしは人からの誉を受けることはしない。
42.しかし、あなたがたのうちには神を愛する愛がないことを知っている。
43.わたしは父の名によってきたのに、あなたがたはわたしを受けいれない。もし、ほかの人が彼自身の名によって来るならば、その人を受けいれるのであろう。
44.互に誉を受けながら、ただひとりの神からの誉を求めようとしないあなたがたは、どうして信じることができようか。
45.わたしがあなたがたのことを父に訴えると、考えてはいけない。あなたがたを訴える者は、あなたがたが頼みとしているモーセその人である。
46.もし、あなたがたがモーセを信じたならば、わたしをも信じたであろう。モーセは、わたしについて書いたのである。
47.しかし、モーセの書いたものを信じないならば、どうしてわたしの言葉を信じるだろうか」。」
「ヨハネによる福音書」第5章39節~47節

この論理でいくと、「真理の御霊」はイエスより尊ばれる者となってしまうが、再臨するイエスは「主」だから別格だろう。(天の父的な存在。)

「49.イエスは答えられた、「わたしは、悪霊に取りつかれているのではなくて、わたしの父を重んじているのだが、あなたがたはわたしを軽んじている。
50.わたしは自分の栄光を求めてはいない。それを求めるかたが別にある。そのかたは、またさばくかたである。
51.よくよく言っておく。もし人がわたしの言葉を守るならば、その人はいつまでも死を見ることがないであろう」。
52.ユダヤ人たちが言った、「あなたが悪霊に取りつかれていることが、今わかった。アブラハムは死に、預言者たちも死んでいる。それだのに、あなたは、わたしの言葉を守る者はいつまでも死を味わうことがないであろうと、言われる。
53.あなたは、わたしたちの父アブラハムより偉いのだろうか。彼も死に、預言者たちも死んだではないか。あなたは、いったい、自分をだれと思っているのか」。
54.イエスは答えられた、「わたしがもし自分に栄光を帰するなら、わたしの栄光は、むなしいものである。わたしに栄光を与えるかたは、わたしの父であって、あなたがたが自分の神だと言っているのは、そのかたのことである。
55.あなたがたはその神を知っていないが、わたしは知っている。もしわたしが神を知らないと言うならば、あなたがたと同じような偽り者であろう。しかし、わたしはそのかたを知り、その御言(みことば)を守っている。
56.あなたがたの父アブラハムは、わたしのこの日を見ようとして楽しんでいた。そしてそれを見て喜んだ」。
57.そこでユダヤ人たちはイエスに言った、「あなたはまだ五十にもならないのに、アブラハムを見たのか」。
58.イエスは彼らに言われた、「よくよくあなたがたに言っておく。アブラハムの生れる前からわたしは、いるのである」。
59.そこで彼らは石をとって、イエスに投げつけようとした。しかし、イエスは身を隠して、宮から出て行かれた。」
「ヨハネによる福音書」第8章49節~59節

イエスが別格である事はよく分かるだろう。また、50節の「それ」は「イエスの栄光」である。

「08:50わたしは、自分の栄光は求めていない。わたしの栄光を求め、裁きをなさる方が、ほかにおられる。」
「ヨハネによる福音書」第8章50節(新共同訳)

これは「真理の御霊」の事だろう。

「7.しかし、わたしはほんとうのことをあなたがたに言うが、わたしが去って行くことは、あなたがたの益になるのだ。わたしが去って行かなければ、あなたがたのところに助け主はこないであろう。もし行けば、それをあなたがたにつかわそう。
8.それがきたら、罪と義とさばきとについて、世の人の目を開くであろう。
9.罪についてと言ったのは、彼らがわたしを信じないからである。
10.義についてと言ったのは、わたしが父のみもとに行き、あなたがたは、もはやわたしを見なくなるからである。
11.さばきについてと言ったのは、この世の君がさばかれるからである。
12.わたしには、あなたがたに言うべきことがまだ多くあるが、あなたがたは今はそれに堪えられない。
13.けれども真理の御霊(みたま)が来る時には、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれるであろう。それは自分から語るのではなく、その聞くところを語り、きたるべき事をあなたがたに知らせるであろう。
14.御霊はわたしに栄光を得させるであろう。わたしのものを受けて、それをあなたがたに知らせるからである。
15.父がお持ちになっているものはみな、わたしのものである。御霊はわたしのものを受けて、それをあなたがたに知らせるのだと、わたしが言ったのは、そのためである。」
「ヨハネによる福音書」第16章7節~15節

「真理の御霊」が現われてこの世を裁くのかもしれない。それが「助け主」の役目の「イエスの再臨」のための準備の一つなのだろう。

「1 エッサイの株から一つの芽が出、その根から一つの若枝が生えて実を結び、
2 その上に主の霊がとどまる。これは知恵と悟りの霊、深慮と才能の霊、主を知る知識と主を恐れる霊である。」
「イザヤ書」第11章1節~2節

ノストラダムスの2巻46番の詩。
Apres grand troche humain,plus grand s'appreste.
Le grand moteur les siecles renouvelle,
Pluye,sang,laict,famine,feu,& pest;
Au ciel veu,courant longue estincelle. (ロバーツ本の原文)
偉大な人類の若枝の後に、もっと偉大なものが準備する
偉大な主導者が何世紀も変革する
雨、流血、乳母、飢餓、火、そして疫病(有害な人)
空で長い火花が流れているのが見られる  

訳の解説(の一部)
「appreste」は「apprester」の活用形で、「apprester」は1606年の辞書にも載っている。「troche」は、最近入手した古語辞典には載っているので、ノストラダムスの時代にもあったようだ。その意味は、「Sarment」とあるので「〔ブドウの〕若枝」。
 3行目の「laict」という単語。20年位前に訳した時は、辞書にないので、仕方なく「laïc(laïque)」(俗人)としたが、古い辞書の横断検索では「laict」でヒットし、古語辞典の「lait」の項に「laict」の文字がうかがえるので、古語の「lait」で考えると「nourrice」(乳母)。よって、俗人を乳母に訂正。(他の例は、「nuit,nuict」「point,poinct」など古語の法則らしい。)

「1.わたしはまた、御座(みざ)にいますかたの右の手に、巻物があるのを見た。その内側にも外側にも字が書いてあって、七つの封印で封じてあった。
2.また、ひとりの強い御使(みつかい)が、大声で、「その巻物を開き、封印をとくのにふさわしい者は、だれか」と呼ばわっているのを見た。
3.しかし、天にも地にも地の下にも、この巻物を開いて、それを見ることのできる者は、ひとりもいなかった。
4.巻物を開いてそれを見るのにふさわしい者が見当らないので、わたしは激しく泣いていた。
5.すると、長老のひとりがわたしに言った、「泣くな。見よ、ユダ族のしし、ダビデの若枝であるかたが、勝利を得たので、その巻物を開き七つの封印を解くことができる」。
6.わたしはまた、御座と四つの生き物との間、長老たちの間に、ほふられたとみえる小羊が立っているのを見た。それに七つの角と七つの目とがあった。これらの目は、全世界につかわされた、神の七つの霊である。
7.小羊は進み出て、御座にいますかたの右の手から、巻物を受けとった。」
「ヨハネの黙示録」第5章1節~7節

「ダビデの若枝」と「ほふられた小羊」は同一人物なのだろう。念のため、イエスとは別人である。

「23 わたしは彼らの上にひとりの牧者を立てる。すなわちわがしもべダビデである。彼は彼らを養う。彼は彼らを養い、彼らの牧者となる。
24 主なるわたしは彼らの神となり、わがしもべダビデは彼らのうちにあって君となる。主なるわたしはこれを言う。」
「エゼキエル書」第34章23節~24節

補足:https://ameblo.jp/hitorinomeaki/entry-12343583915.html

おまけ