参考資料1579 | シフル・ド・ノストラダムス

シフル・ド・ノストラダムス

ノストラダムスの暗号解読

ガラテヤ人への手紙 その11
「13.兄弟たちよ。あなたがたが召されたのは、実に、自由を得るためである。ただ、その自由を、肉の働く機会としないで、愛をもって互に仕えなさい。
14.律法の全体は、「自分を愛するように、あなたの隣り人を愛せよ」というこの一句に尽きるからである。
15.気をつけるがよい。もし互にかみ合い、食い合っているなら、あなたがたは互に滅ぼされてしまうだろう。
16.わたしは命じる、御霊(みたま)によって歩きなさい。そうすれば、決して肉の欲を満たすことはない。
17.なぜなら、肉の欲するところは御霊に反し、また御霊の欲するところは肉に反するからである。こうして、二つのものは互に相さからい、その結果、あなたがたは自分でしようと思うことを、することができないようになる。
18.もしあなたがたが御霊に導かれるなら、律法の下(もと)にはいない。
19.肉の働きは明白である。すなわち、不品行、汚れ、好色、
20.偶像礼拝、まじない、敵意、争い、そねみ、怒り、党派心、分裂、分派、
21.ねたみ、泥酔(でいすい)、宴楽、および、そのたぐいである。わたしは以前も言ったように、今も前もって言っておく。このようなことを行う者は、神の国をつぐことがない。
22.しかし、御霊(みたま)の実は、愛、喜び、平和、寛容、慈愛、善意、忠実、
23.柔和、自制であって、これらを否定する律法はない。
24.キリスト・イエスに属する者は、自分の肉を、その情と欲と共に十字架につけてしまったのである。
25.もしわたしたちが御霊によって生きるのなら、また御霊によって進もうではないか。
26.互にいどみ合い、互にねたみ合って、虚栄に生きてはならない。」
「ガラテヤ人への手紙」第5章13節~26節

感想
>14.律法の全体は、「自分を愛するように、あなたの隣り人を愛せよ」というこの一句に尽きるからである。

パウロはこれさえ守れれば律法は必要ないと考えているようだが(あとイエスを信じる事)、これを実行するのが非常に難しいから他の律法があると言っても過言ではない。例えば、姦淫するなかれや「目には目を」を止めろなどという律法は、この「隣人愛」を実行するために必要だからである。いきなり、彼女を友達に寝取られたりしたら大抵の人間は耐えられないだろう。つまり、そういう事が最小限になるための律法である。

「35.そして彼らの中のひとりの律法学者が、イエスをためそうとして質問した、
36.「先生、律法の中で、どのいましめがいちばん大切なのですか」。
37.イエスは言われた、「『心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ』。
38.これがいちばん大切な、第一のいましめである。
39.第二もこれと同様である、『自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ』。
40.これらの二つのいましめに、律法全体と預言者とが、かかっている」。 」
「マタイによる福音書」第22章35節~40節

今まではあまり深く考えて来なかったが、「律法全体と預言者とがかかっている」の預言者がかかっているとはどういう意味なんだろう。「終わりの時」の人達がこれら2つの律法を守れるようになるといよいよ預言者が現われるという意味なのだろうか。

「およそ、律法の会議から離れて、心かたくななまでに歩んではならない
そのときは、共同体の人々が、初めに教えられたおきてによって裁かれる
ひとりの予言者と、アロンおよびイスラエルのメシアの現れるまで」
死海写本『会衆要覧』

ひとりの予言者は翻訳の問題で「一人の預言者」だろう。個人的には、アロンのメシアが兼任していると考えている。その根拠は、イスラエルのメシアがイエス・キリストでアロンのメシアはイエスの再臨の準備をする洗礼者ヨハネ的な役割の人物だと考えているからである。因みに、洗礼者ヨハネはアロン家の血を引いている。(「ルカによる福音書」第1章5節)

補足:ノストラダムスの2巻13番の詩
Le corps sans ame plus n'estre en sacrifice,
Jour de la mort mise en nativite:
L'esprit divin fera l'ame felice,
Voyant le verbe en son eternite.
感情のない身体はもはや犠牲とはならない
(キリストの)降誕において置かれる滅亡の日
崇高な精神は心を至福にするだろう
予言者、彼の永遠への言語表現  

訳の解説
「corps sans âme」は、慣用句で「魂の抜けた人、ふぬけ、指揮官(指導者)を失った軍隊(党)」なので、「魂のない肉体」というような死体的なイメージより現実的な表現を選んだ。
また、「nativite」(〔キリストの〕降誕、〔聖母マリア、洗者ヨハネの〕誕生、キリスト降誕図(像))降誕(誕生)に「naissance」(誕生、出現)ではなく、「nativite」を使ったのは、キリストの降誕を表したかったとしか考えられない。

>18.もしあなたがたが御霊に導かれるなら、律法の下(もと)にはいない。

パウロは自分の中にあるキリスト(聖霊)のような意味で述べているが、真の「終わりの時」には「真理の御霊」というのが現われる事になっているので、シンクロニシティーとして考える。

「7.しかし、わたしはほんとうのことをあなたがたに言うが、わたしが去って行くことは、あなたがたの益になるのだ。わたしが去って行かなければ、あなたがたのところに助け主はこないであろう。もし行けば、それをあなたがたにつかわそう
8.それがきたら、罪と義とさばきとについて、世の人の目を開くであろう。
9.罪についてと言ったのは、彼らがわたしを信じないからである。
10.義についてと言ったのは、わたしが父のみもとに行き、あなたがたは、もはやわたしを見なくなるからである。
11.さばきについてと言ったのは、この世の君がさばかれるからである。
12.わたしには、あなたがたに言うべきことがまだ多くあるが、あなたがたは今はそれに堪えられない。
13.けれども真理の御霊(みたま)が来る時には、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれるであろう。それは自分から語るのではなく、その聞くところを語り、きたるべき事をあなたがたに知らせるであろう。」
「ヨハネによる福音書」第16章7節~13節

イエスの律法は大事である。現代のキリスト教の下にはいないと解釈するべきだろう。

「17.わたしが律法や預言者を廃するためにきた、と思ってはならない。廃するためではなく、成就するためにきたのである。
18.よく言っておく。天地が滅び行くまでは、律法の一点、一画もすたることはなく、ことごとく全うされるのである。
19.それだから、これらの最も小さいいましめの一つでも破り、またそうするように人に教えたりする者は、天国で最も小さい者と呼ばれるであろう。しかし、これをおこないまたそう教える者は、天国で大いなる者と呼ばれるであろう。
20.わたしは言っておく。あなたがたの義が律法学者やパリサイ人(びと)の義にまさっていなければ、決して天国に、はいることはできない。」
「マタイによる福音書」第5章17節~20節

パウロは天国で一番小さい者なのかな? また、20節から律法と義は深い関連がある事がうかがえる。現在の法律とは大違いである。

おまけ