ガラテヤ人への手紙 その10
「1.自由を得させるために、キリストはわたしたちを解放して下さったのである。だから、堅く立って、二度と奴隷のくびきにつながれてはならない。
2.見よ、このパウロがあなたがたに言う。もし割礼を受けるなら、キリストはあなたがたに用のないものになろう。
3.割礼を受けようとするすべての人たちに、もう一度言っておく。そういう人たちは、律法の全部を行う義務がある。
4.律法によって義とされようとするあなたがたは、キリストから離れてしまっている。恵みから落ちている。
5.わたしたちは、御霊(みたま)の助けにより、信仰によって義とされる望みを強くいだいている。
6.キリスト・イエスにあっては、割礼があってもなくても、問題ではない。尊いのは、愛によって働く信仰だけである。
7.あなたがたはよく走り続けてきたのに、だれが邪魔をして、真理にそむかせたのか。
8.そのような勧誘は、あなたがたを召されたかたから出たものではない。
9.少しのパン種でも、粉のかたまり全体をふくらませる。
10.あなたがたはいささかもわたしと違った思いをいだくことはないと、主にあって信頼している。しかし、あなたがたを動揺させている者は、それがだれであろうと、さばきを受けるであろう。
11.兄弟たちよ。わたしがもし今でも割礼を宣(の)べ伝えていたら、どうして、いまなお迫害されるはずがあろうか。そうしていたら、十字架のつまずきは、なくなっているであろう。
12.あなたがたの煽動者(せんどうしゃ)どもは、自ら不具になるがよかろう。」
「ガラテヤ人への手紙」第5章1節~12節
感想
>1.自由を得させるために、キリストはわたしたちを解放して下さったのである。だから、堅く立って、二度と奴隷のくびきにつながれてはならない。
精神世界の本(現在はスピリチュアル)的には、欲望の奴隷からの解放だと思うが、ちょっと調べた所、キリスト教的には罪の奴隷からの解放らしい。
参考元:http://eastwindow18.hatenadiary.com/entry/2016/03/08/053418
因みに、イエスの教えにも「くびき」はある。
「28.すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう。
29.わたしは柔和で心のへりくだった者であるから、わたしのくびきを負うて、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたの魂に休みが与えられるであろう。
30.わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」
「マタイによる福音書」第11章28節~30節
個人的には、イエスの「くびき」の方が過酷だと考えている。表面的には、旧約聖書では例えば豚肉を食べてはいけないなどを何を食べても良くしているが、「姦淫するな」とか「汝の敵を愛せよ」とか普通の人には不可能なように更新されている。
「27.『姦淫(かんいん)するな』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。
28.しかし、わたしはあなたがたに言う。だれでも、情欲をいだいて女を見る者は、心の中ですでに姦淫をしたのである。」
「マタイによる福音書」第5章27節~28節
「43.『隣り人を愛し、敵を憎め』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。
44.しかし、わたしはあなたがたに言う。敵を愛し、迫害する者のために祈れ。」
「マタイによる福音書」第5章43節~44節
「38.『目には目を、歯には歯を』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。
39.しかし、わたしはあなたがたに言う。悪人に手向かうな。もし、だれかがあなたの右の頬(ほお)を打つなら、ほかの頬をも向けてやりなさい。」
「マタイによる福音書」第5章38節~39節
その理由は、旧約聖書の律法は普通の人のために書かれているが、イエスの律法は千年王国に入る人の為に書かれているからである。何しろ、「終わりの時」に生きていると思っていたのだから。
証拠
「18.子供たちよ。今は終りの時である。あなたがたがかねて反キリストが来ると聞いていたように、今や多くの反キリストが現れてきた。それによって今が終りの時であることを知る。」
「ヨハネの第一の手紙」第2章18節
「48.それだから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。」
「マタイによる福音書」第5章48節
>6.キリスト・イエスにあっては、割礼があってもなくても、問題ではない。尊いのは、愛によって働く信仰だけである。
以前にも書いたが、イエスの説く愛は普通の愛(恋愛,家族愛)とは違うアガペーである。
「12.わたしのいましめは、これである。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互に愛し合いなさい。
13.人がその友のために自分の命を捨てること、これよりも大きな愛はない。
14.あなたがたにわたしが命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。
15.わたしはもう、あなたがたを僕(しもべ)とは呼ばない。僕は主人のしていることを知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼んだ。わたしの父から聞いたことを皆、あなたがたに知らせたからである。
16.あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだのである。そして、あなたがたを立てた。それは、あなたがたが行って実をむすび、その実がいつまでも残るためであり、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものはなんでも、父が与えて下さるためである。
17.これらのことを命じるのは、あなたがたが互に愛し合うためである。」
「ヨハネによる福音書」第15章12節~17節
余談だが、イエスはユダ(裏切り者のユダ)を友と呼んでいる(「マタイによる福音書」第26章50節)ので、最後の最後までは、共に試練をくぐり抜けて来た真の同志だったと考えている。だから、その後すぐに後悔して自殺したのだろう。
>10.あなたがたはいささかもわたしと違った思いをいだくことはないと、主にあって信頼している。しかし、あなたがたを動揺させている者は、それがだれであろうと、さばきを受けるであろう。
>12.あなたがたの煽動者(せんどうしゃ)どもは、自ら不具になるがよかろう。
偽使徒は中々の論者だったのかな。「悔い改めよ、天国は近づいた。」http://earth-words.org/archives/7954
因みに、ダーウィンの名言の2番目はガセネタらしい。http://d.hatena.ne.jp/Sugars/20130321/p1生き残るのは運のいい者らしい。
個人的には、正しい者(義がある者)が生き残ると考えているが。念のため、「終わりの時」の話。
「118:20 これは主の門である。正しい者はその内にはいるであろう。」
「詩篇」第118篇20節
補足:http://nekonaga.hatenablog.com/entry/20150409/1428570000
http://natrom.sakura.ne.jp/koizumi.html
おまけ