ガラテヤ人への手紙 その5
「1.ああ、物わかりのわるいガラテヤ人(びと)よ。十字架につけられたイエス・キリストが、あなたがたの目の前に描き出されたのに、いったい、だれがあなたがたを惑わしたのか。
2.わたしは、ただこの一つの事を、あなたがたに聞いてみたい。あなたがたが御霊(みたま)を受けたのは、律法を行ったからか、それとも、聞いて信じたからか。
3.あなたがたは、そんなに物わかりがわるいのか。御霊で始めたのに、今になって肉で仕上げるというのか。
4.あれほどの大きな経験をしたことは、むだであったのか。まさか、むだではあるまい。
5.すると、あなたがたに御霊を賜い、力あるわざをあなたがたの間でなされたのは、律法を行ったからか、それとも、聞いて信じたからか。
6.このように、アブラハムは「神を信じた。それによって、彼は義と認められた」のである。
7.だから、信仰による者こそアブラハムの子であることを、知るべきである。
8.聖書は、神が異邦人を信仰によって義とされることを、あらかじめ知って、アブラハムに、「あなたによって、すべての国民は祝福されるであろう」との良い知らせを、予告したのである。
9.このように、信仰による者は、信仰の人アブラハムと共に、祝福を受けるのである。
10.いったい、律法の行いによる者は、皆のろいの下(もと)にある。「律法の書に書いてあるいっさいのことを守らず、これを行わない者は、皆のろわれる」と書いてあるからである。
11.そこで、律法によっては、神のみまえに義とされる者はひとりもないことが、明らかである。なぜなら、「信仰による義人は生きる」からである。
12.律法は信仰に基いているものではない。かえって、「律法を行う者は律法によって生きる」のである。
13.キリストは、わたしたちのためにのろいとなって、わたしたちを律法ののろいからあがない出して下さった。聖書に、「木にかけられる者は、すべてのろわれる」と書いてある。
14.それは、アブラハムの受けた祝福が、イエス・キリストにあって異邦人に及ぶためであり、約束された御霊(みたま)を、わたしたちが信仰によって受けるためである。」
「ガラテヤ人への手紙」第3章1節~14節
感想
>1.ああ、物わかりのわるいガラテヤ人(びと)よ。十字架につけられたイエス・キリストが、あなたがたの目の前に描き出されたのに、いったい、だれがあなたがたを惑わしたのか。
パウロの言い分はよく分かる。当時、さんざん律法を遵守して来たパウロがイエスを信じる事(のみ)によって聖霊が下り、奇跡が起こせるようになったのだから。 しかし、それが本当の「義」か?
「21.わたしにむかって、『主よ、主よ』と言う者が、みな天国にはいるのではなく、ただ、天にいますわが父の御旨(みむね)を行う者だけが、はいるのである。
22.その日には、多くの者が、わたしにむかって『主よ、主よ、わたしたちはあなたの名によって預言したではありませんか。また、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって多くの力あるわざを行ったではありませんか』と言うであろう。
23.そのとき、わたしは彼らにはっきり、こう言おう、『あなたがたを全く知らない。不法を働く者どもよ、行ってしまえ』。
24.それで、わたしのこれらの言葉を聞いて行うものを、岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができよう。
25.雨が降り、洪水(こうずい)が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけても、倒れることはない。岩を土台としているからである。
26.また、わたしのこれらの言葉を聞いても行わない者を、砂の上に自分の家を建てた愚かな人に比べることができよう。
27.雨が降り、洪水(こうずい)が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけると、倒れてしまう。そしてその倒れ方はひどいのである」。
28.イエスがこれらの言(ことば)を語り終えられると、群衆はその教にひどく驚いた。」
「マタイによる福音書」第7章21節~28節
念のため、行為義認だけではダメである。「イエスの再臨」を信じる信仰義認がなければ。
>3.あなたがたは、そんなに物わかりがわるいのか。御霊で始めたのに、今になって肉で仕上げるというのか。
現代では、当時より律法が重んじられていないので、肉による「義」が非常に大事なのである。
「30.イエスが答えて言われた、「ある人がエルサレムからエリコに下って行く途中、強盗どもが彼を襲い、その着物をはぎ取り、傷を負わせ、半殺しにしたまま、逃げ去った。
31.するとたまたま、ひとりの祭司がその道を下ってきたが、この人を見ると、向こう側を通って行った。
32.同様に、レビ人(びと)もこの場所にさしかかってきたが、彼を見ると向こう側を通って行った。
33.ところが、あるサマリヤ人(びと)が旅をしてこの人のところを通りかかり、彼を見て気の毒に思い、
34.近寄ってきてその傷にオリブ油とぶどう酒とを注いでほうたいをしてやり、自分の家畜に乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。
35.翌日、デナリ二つを取り出して宿屋の主人に手渡し、『この人を見てやってください。費用がよけいにかかったら、帰りがけに、わたしが支払います』と言った。
36.この三人のうち、だれが強盗に襲われた人の隣り人になったと思うか」。
37.彼が言った、「その人に慈悲深い行いをした人です」。そこでイエスは言われた、「あなたも行って同じようにしなさい」。」
「ルカによる福音書」第10章30節~37節
何度も同じ事を書くが、日本人が倒れていたとすると、同じ日本人は素通りし、見知らぬ韓国人が介抱したような話。男気がある人が選ばれるのだろう。
「24.あなたがたに言っておく。多くの預言者や王たちも、あなたがたの見ていることを見ようとしたが、見ることができず、あなたがたの聞いていることを聞こうとしたが、聞けなかったのである」。
25.するとそこへ、ある律法学者が現れ、イエスを試みようとして言った、「先生、何をしたら永遠の生命が受けられましょうか」。
26.彼に言われた、「律法にはなんと書いてあるか。あなたはどう読むか」。
27.彼は答えて言った、「『心をつくし、精神をつくし、力をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ』。また、『自分を愛するように、あなたの隣り人を愛せよ』とあります」。
28.彼に言われた、「あなたの答えは正しい。そのとおり行いなさい。そうすれば、いのちが得られる」。
29.すると彼は自分の立場を弁護しようと思って、イエスに言った、「では、わたしの隣り人とはだれのことですか」。」
「ルカによる福音書」第7章24節~29節
上の話より、「隣人愛」とは見知らぬ外国人をも含むのである。イエス的には敵もだけどね。(敵を愛し、迫害する者のために祈れ。)
>11.そこで、律法によっては、神のみまえに義とされる者はひとりもないことが、明らかである。なぜなら、「信仰による義人は生きる」からである。
12.律法は信仰に基いているものではない。かえって、「律法を行う者は律法によって生きる」のである。
13.キリストは、わたしたちのためにのろいとなって、わたしたちを律法ののろいからあがない出して下さった。聖書に、「木にかけられる者は、すべてのろわれる」と書いてある。
イエスに代わって代弁しよう。
「17.わたしが律法や預言者を廃するためにきた、と思ってはならない。廃するためではなく、成就するためにきたのである。
18.よく言っておく。天地が滅び行くまでは、律法の一点、一画もすたることはなく、ことごとく全うされるのである。」
「マタイによる福音書」第5章17節~18節
>聖書に、「木にかけられる者は、すべてのろわれる」と書いてある。
これは、「申命記」第21章22節~23節らしい。
「21:22 もし人が死にあたる罪を犯して殺され、あなたがそれを木の上にかける時は、
21:23 翌朝までその死体を木の上に留めておいてはならない。必ずそれをその日のうちに埋めなければならない。木にかけられた者は神にのろわれた者だからである。あなたの神、主が嗣業として賜わる地を汚してはならない。」
「申命記」第21章22節~23節
これは、こじつけだろう。どう考えてもイエスの事ではない。念のため、木とは十字架と考えられているそうである。
補足
「使徒パウロはここの箇所を、律法が呪いをもたらす象徴として捉えていました。そして、キリストが十字架につけられたのは、律法の呪いを受けられた、呪われた者となったことを話しました。「キリストは、私たちのためにのろわれたものとなって、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。なぜなら、『木にかけられる者はすべてのろわれたものである。』と書いてあるからです。(ガラテヤ3:13)」」
引用元:http://www.logos-ministries.org/old_b/deut20-21.html
パウロも預言と解釈していたようではないらしいが、どう考えても詭弁だろう。イエスは律法を更新しているが、それは天の父の意思だろう。それで呪われるなんて矛盾している。
「26.あなたがたについて、わたしの言うべきこと、さばくべきことが、たくさんある。しかし、わたしをつかわされたかたは真実なかたである。わたしは、そのかたから聞いたままを世にむかって語るのである」。
27.彼らは、イエスが父について話しておられたことを悟らなかった。
28.そこでイエスは言われた、「あなたがたが人の子を上げてしまった後はじめて、わたしがそういう者であること、また、わたしは自分からは何もせず、ただ父が教えて下さったままを話していたことが、わかってくるであろう。」
「ヨハネによる福音書」第8章26節~28節
おまけ