ヨハネによる福音書 その42
「12.わたしのいましめは、これである。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互に愛し合いなさい。
13.人がその友のために自分の命を捨てること、これよりも大きな愛はない。
14.あなたがたにわたしが命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。
15.わたしはもう、あなたがたを僕(しもべ)とは呼ばない。僕は主人のしていることを知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼んだ。わたしの父から聞いたことを皆、あなたがたに知らせたからである。
16.あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだのである。そして、あなたがたを立てた。それは、あなたがたが行って実をむすび、その実がいつまでも残るためであり、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものはなんでも、父が与えて下さるためである。
17.これらのことを命じるのは、あなたがたが互に愛し合うためである。
18.もしこの世があなたがたを憎むならば、あなたがたよりも先にわたしを憎んだことを、知っておくがよい。
19.もしあなたがたがこの世から出たものであったなら、この世は、あなたがたを自分のものとして愛したであろう。しかし、あなたがたはこの世のものではない。かえって、わたしがあなたがたをこの世から選び出したのである。だから、この世はあなたがたを憎むのである。
20.わたしがあなたがたに、『僕はその主人にまさるものではない』と言ったことを、おぼえていなさい。もし人々がわたしを迫害したなら、あなたがたをも迫害するであろう。また、もし彼らがわたしの言葉を守っていたなら、あなたがたの言葉をも守るであろう。
21.彼らはわたしの名のゆえに、あなたがたに対してすべてそれらのことをするであろう。それは、わたしをつかわされたかたを彼らが知らないからである。
22.もしわたしがきて彼らに語らなかったならば、彼らは罪を犯さないですんだであろう。しかし今となっては、彼らには、その罪について言いのがれる道がない。
23.わたしを憎む者は、わたしの父をも憎む。
24.もし、ほかのだれもがしなかったようなわざを、わたしが彼らの間でしなかったならば、彼らは罪を犯さないですんだであろう。しかし事実、彼らはわたしとわたしの父とを見て、憎んだのである。
25.それは、『彼らは理由なしにわたしを憎んだ』と書いてある彼らの律法の言葉が成就するためである。
26.わたしが父のみもとからあなたがたにつかわそうとしている助け主、すなわち、父のみもとから来る真理の御霊(みたま)が下る時、それはわたしについてあかしをするであろう。
27.あなたがたも、初めからわたしと一緒にいたのであるから、あかしをするのである。」
「ヨハネによる福音書」第15章12節~27節
感想
>12.わたしのいましめは、これである。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互に愛し合いなさい。
隣人愛は数ある律法の中で1,2を争う大事な戒律らしい。
「35.そして彼らの中のひとりの律法学者が、イエスをためそうとして質問した、
36.「先生、律法の中で、どのいましめがいちばん大切なのですか」。
37.イエスは言われた、「『心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ』。
38.これがいちばん大切な、第一のいましめである。
39.第二もこれと同様である、『自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ』。
40.これらの二つのいましめに、律法全体と預言者とが、かかっている」。 」
「マタイによる福音書」第22章35節~40節
また、永遠の命への鍵でもあるらしい。
「25.するとそこへ、ある律法学者が現れ、イエスを試みようとして言った、「先生、何をしたら永遠の生命が受けられましょうか」。
26.彼に言われた、「律法にはなんと書いてあるか。あなたはどう読むか」。
27.彼は答えて言った、「『心をつくし、精神をつくし、力をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ』。また、『自分を愛するように、あなたの隣り人を愛せよ』とあります」。
28.彼に言われた、「あなたの答えは正しい。そのとおり行いなさい。そうすれば、いのちが得られる」。 」
「ルカによる福音書」第10章25節~28節
>13.人がその友のために自分の命を捨てること、これよりも大きな愛はない。
究極の利他主義だね。ただし、イエスは自分を信じる者は死んでも蘇ると考えていたので言葉通りに受け取ってはならない。でも、イエスが利他主義や共有財産的な考え方である事は間違いない。
「31.人の子が栄光の中にすべての御使(みつかい)たちを従えて来るとき、彼はその栄光の座につくであろう。
32.そして、すべての国民をその前に集めて、羊飼が羊とやぎとを分けるように、彼らをより分け、
33.羊を右に、やぎを左におくであろう。
34.そのとき、王は右にいる人々に言うであろう、『わたしの父に祝福された人たちよ、さあ、世の初めからあなたがたのために用意されている御国(みくに)を受けつぎなさい。
35.あなたがたは、わたしが空腹のときに食べさせ、かわいていたときに飲ませ、旅人であったときに宿を貸し、
36.裸であったときに着せ、病気のときに見舞い、獄にいたときに尋ねてくれたからである』。
37.そのとき、正しい者たちは答えて言うであろう、『主よ、いつ、わたしたちは、あなたが空腹であるのを見て食物をめぐみ、かわいているのを見て飲ませましたか。
38.いつあなたが旅人であるのを見て宿を貸し、裸なのを見て着せましたか。
39.また、いつあなたが病気をし、獄にいるのを見て、あなたの所に参りましたか』。
40.すると、王は答えて言うであろう、『あなたがたによく言っておく。わたしの兄弟であるこれらの最も小さい者のひとりにしたのは、すなわち、わたしにしたのである』。
41.それから、左にいる人々にも言うであろう、『のろわれた者どもよ、わたしを離れて、悪魔とその使たちとのために用意されている永遠の火にはいってしまえ。
42.あなたがたは、わたしが空腹のときに食べさせず、かわいていたときに飲ませず、
43.旅人であったときに宿を貸さず、裸であったときに着せず、また病気のときや、獄にいたときに、わたしを尋ねてくれなかったからである』。
44.そのとき、彼らもまた答えて言うであろう、『主よ、いつ、あなたが空腹であり、かわいておられ、旅人であり、裸であり、病気であり、獄におられたのを見て、わたしたちはお世話をしませんでしたか』。
45.そのとき、彼は答えて言うであろう、『あなたがたによく言っておく。これらの最も小さい者のひとりにしなかったのは、すなわち、わたしにしなかったのである』。
46.そして、彼らは永遠の刑罰を受け正しい者は永遠の生命に入るであろう」。」
「マタイによる福音書」第25章31節~46節
>25.それは、『彼らは理由なしにわたしを憎んだ』と書いてある彼らの律法の言葉が成就するためである。
旧約聖書「詩篇」第109篇らしい。
「109:2 彼らは悪しき口と欺きの口をあけて、わたしにむかい、偽りの舌をもってわたしに語り、
109:3 恨みの言葉をもってわたしを囲み、ゆえなくわたしを攻めるのです。」
旧約聖書「詩篇」第109篇2節~3節
素朴な疑問だが、「旧約聖書」は「彼らの律法」なのか。一部以外は必要ないという事なのかな。確かに豚肉を食べてはいけないとか血を食べてはいけないとかあまり意味がないよね。(ユダヤ教徒は牛のステーキは食べるが血を抜くらしい。)
>24.もし、ほかのだれもがしなかったようなわざを、わたしが彼らの間でしなかったならば、彼らは罪を犯さないですんだであろう。
要は、イエスが起こす奇跡が気に入らないのだろう。(「神の子」と認めざるを得なくなるから。)
>26.わたしが父のみもとからあなたがたにつかわそうとしている助け主、すなわち、父のみもとから来る真理の御霊(みたま)が下る時、それはわたしについてあかしをするであろう。
「真理の御霊」については今まで何度も書いたので、今回は先程の「詩篇」第109篇から抜き書きしてみよう。
「109:21 しかし、わが主なる神よ、あなたはみ名のために、わたしを顧みてください。あなたのいつくしみの深きにより、わたしをお助けください。
109:22 わたしは貧しく、かつ乏しいのです。わたしの心はわがうちに傷ついています。
109:23 わたしは夕日の影のように去りゆき、いなごのように追い払われます。
109:24 わたしのひざは断食によってよろめき、わたしの肉はやせ衰え、
109:25 わたしは彼らにそしられる者となりました。彼らはわたしを見ると、頭を振ります。
109:26 わが神、主よ、わたしをお助けください。あなたのいつくしみにしたがって、わたしをお救いください。
109:27 主よ、これがあなたのみ手のわざであること、あなたがそれをなされたことを、彼らに知らせてください。
109:28 彼らはのろうけれども、あなたは祝福されます。わたしを攻める者をはずかしめ、あなたのしもべを喜ばせてください。
109:29 わたしを非難する者にはずかしめを着せ、おのが恥を上着のようにまとわせてください。
109:30 わたしはわが口をもって大いに主に感謝し、多くの人のなかで主をほめたたえます。
109:31 主は貧しい者の右に立って、死罪にさだめようとする者から彼を救われるからです。」
「詩篇」第109篇21節~31節
私の持論のイエスと「真理の御霊」のダブルミーニングと考えている。イエスの方では25節の「頭を振ります」は「マタイによる福音書」第27章39節の「そこを通りかかった者たちは、頭を振りながら、イエスをののしって」と解釈している。ただし、31節は死罪は執行された事に意味があるので、救われるとはちょっと違うと思う。
また、イエスは貧しくはなかっただろう。だから、「真理の御霊」の方は貧乏なのかもしれない。(貧しい人標準だから。)また、27節のように何か神業を行うのかもしれない。
おまけ