参考資料1070 | シフル・ド・ノストラダムス

シフル・ド・ノストラダムス

ノストラダムスの暗号解読

マグダラのマリアとユダ その2
「イエスから金の出し入れをまかされていたユダは、なかなか律義な合理主義者だったと見える。それが彼を裏切りに導くのか。ユダがイエスを売ったのは、ルカによればこの晩、ヨハネによれば「最後の晩餐」をとって後のことだ。
 しかしイエスは、しずかにユダをたしなめた。
「どうして、この女をこまらせるようなことを言いだすのか。この人は、ほかにわたしのためにつくす手だてを知らないままに、自分のだいじな香油を惜しみなくわたしにそそいだのだ。わたしたちには、愛する者が死ぬと、からだに香油をかけてやるならいがあるではないか。いまマリアは、わたしに油をそそいで、わたしが葬られる時の用意をしてくれたのだ。ほかの者もよくききなさい。マリアは今日わたしに油をそそいでくれたことで、その名は全世界の人に伝えられるであろう。」(マルコ伝14)

 この間にエルサレムの神殿を後楯にしている祭司や学者やパリサイ派の人々は、日一日といらだちを強めてきた。彼らがそれほどまでにイエスを敵視したのは、彼に手ひどい批判や悪罵を浴びせられたこともあるが、要はイエスが神を父と呼び、自分を神の子(彼は「人の子」という表現を用いてたくみに彼らの追及をかわしていた)をもって任じていたことが、彼らにとっては許しがたい神の冒瀆と映ったからにちがいない。
 彼らは「すぎこしの祭り」が始まる前に、どうかして彼を捕えたいと思った。しかしイエスはたくみに言い逃れをして尻尾をつかませなかったし、そのうちには、いどころまでくらましてしまった。
 そこで、祭司やパリサイ派の人たちは、ひそかにイエスの居場所を教えてくれた者には、それにふさわしいだけの礼をすることを約束した。
 そのことが、ユダの耳にはいった。
 ユダの心のうちこそ奇怪なものだった。彼とてイエスの十二人の弟子の中に選ばれたほどだから、エホバの神を信じ、イエスが「救い主」であることを、ぜんぜん信じていなかったはずはない。マリヤの香油事件で師にたしなめられたように、とかく金のことに心がとらわれがちだったとしても、師を裏切ってイエスの居場所を祭司たちに密告するまでには、多くの悩みとためらいがあったにちがいない。
 それを敢えて踏みきって師を売り渡したについては、最後に悪魔がユダの心にしのびこんで、こんなふうにささやいたとしか考えようがない。
「おまえが神の子キリストと信じているあのイエスは、ほんとうの救い主だろうか。どうだ、ひとつあの人を敵の手にわたして、神の子か、にせものか、ためしてみては・・・・。」
 結局この悪魔のさそいにまけて、ユダはこっそり神殿の祭司長をたずねたのだろう。
「イエスのいるところを教えたら、いくら礼をくれますか。」
 学者たちはよろこんで、銀貨三十枚を出すことにしたのだ。」
「聖書物語・新約物語」山室静著より

感想
>「どうして、この女をこまらせるようなことを言いだすのか。この人は、ほかにわたしのためにつくす手だてを知らないままに、自分のだいじな香油を惜しみなくわたしにそそいだのだ。わたしたちには、愛する者が死ぬと、からだに香油をかけてやるならいがあるではないか。いまマリアは、わたしに油をそそいで、わたしが葬られる時の用意をしてくれたのだ。ほかの者もよくききなさい。マリアは今日わたしに油をそそいでくれたことで、その名は全世界の人に伝えられるであろう。」(マルコ伝14)

昨日も原文を挙げたが、

「3.イエスがベタニヤで、らい病人シモンの家にいて、食卓についておられたとき、ひとりの女が、非常に高価で純粋なナルドの香油が入れてある石膏(せっこう)のつぼを持ってきて、それをこわし、香油をイエスの頭に注ぎかけた。
4.すると、ある人々が憤って互に言った、「なんのために香油をこんなにむだにするのか。
5.この香油を三百デナリ以上にでも売って、貧しい人たちに施すことができたのに」。そして女をきびしくとがめた。
6.するとイエスは言われた、「するままにさせておきなさい。なぜ女を困らせるのか。わたしによい事をしてくれたのだ。
7.貧しい人たちはいつもあなたがたと一緒にいるから、したいときにはいつでも、よい事をしてやれる。しかし、わたしはあなたがたといつも一緒にいるわけではない。
8.この女はできる限りの事をしたのだ。すなわち、わたしのからだに油を注いで、あらかじめ葬りの用意をしてくれたのである。
9.よく聞きなさい。全世界のどこででも、福音が宣(の)べ伝えられる所では、この女のした事も記念として語られるであろう」。」
「マルコによる福音書」第14章3節~9節

別にユダが文句を言った訳でもなく、イエスがマリアと呼んでいる訳でもない。一応、昨日の記事から、

「ことにユダは、女のそばにいって、
「なぜ、こんな無駄なことをするのです。この香油はとても高価なものではないか。これを売ってごらんなさい、ずいぶん高く売れます。その金を貧しい人たちに分けてやったら、どんなに喜ばれることか。もったいないことをする人だ」
と、ぶつぶつ言った。」

「この女は、マタイやマルコでは名があげられていないが、ヨハネではマルタの妹のマリアとされ(香油はイエスの足にぬり、自分の髪で拭ったとなっている)、ルカでは売笑婦だったらしいマグダラのマリアがマルタの妹と同じことをしている(時日はもっと以前だが)。
 マルタの妹のマリアとマグダラのマリアが同じ女かどうかは、わからない。」

>この間にエルサレムの神殿を後楯にしている祭司や学者やパリサイ派の人々は、日一日といらだちを強めてきた。彼らがそれほどまでにイエスを敵視したのは、彼に手ひどい批判や悪罵を浴びせられたこともあるが、要はイエスが神を父と呼び、自分を神の子(彼は「人の子」という表現を用いてたくみに彼らの追及をかわしていた)をもって任じていたことが、彼らにとっては許しがたい神の冒瀆と映ったからにちがいない。

論破すればいいのに。イエスの言っている事って変な所沢山あるよね。例えば、「ヨハネによる福音書」第8章では、

「15.あなたがたは肉によって人をさばくが、わたしはだれもさばかない。
16.しかし、もしわたしがさばくとすれば、わたしのさばきは正しい。なぜなら、わたしはひとりではなく、わたしをつかわされたかたが、わたしと一緒だからである。」
「ヨハネによる福音書」第8章15節~16節

と、自分は人を裁くような人間ではないと言っていて、さらに、

「50.わたしは自分の栄光を求めてはいない。それを求めるかたが別にある。そのかたは、またさばくかたである。」
「ヨハネによる福音書」第8章50節

裁く人間は他にいると述べている。(天の父(私を遣わされた方)ではない事は自明だろう。)
ところが、

「39.そこでイエスは言われた、「わたしがこの世にきたのは、さばくためである。すなわち、見えない人たちが見えるようになり、見える人たちが見えないようになるためである」。」
「ヨハネによる福音書」第9章39節

とあり、裁くために来たと述べている。これは誰も裁かないに明らかに矛盾するよね。
まぁ、この世を裁くために来たのであって、人一人を裁くためではないので(個人は)誰も裁かないという意味なんだろうけどね。

>ユダの心のうちこそ奇怪なものだった。彼とてイエスの十二人の弟子の中に選ばれたほどだから、エホバの神を信じ、イエスが「救い主」であることを、ぜんぜん信じていなかったはずはない。

まだ、聖書を詳しく読んでいないのでユダがどういう奴だったか全く知らないが、神の国に入る事より教団内での自分の地位とかが大事だったのかな。何にしてもイエスの教えは次元が違い過ぎて着いて行くのは大変だったと思うよ。

「49.わたしは、火を地上に投じるためにきたのだ。火がすでに燃えていたならと、わたしはどんなに願っていることか。
50.しかし、わたしには受けねばならないバプテスマがある。そして、それを受けてしまうまでは、わたしはどんなにか苦しい思いをすることであろう。
51.あなたがたは、わたしが平和をこの地上にもたらすためにきたと思っているのか。あなたがたに言っておく。そうではない。むしろ分裂である。
52.というのは、今から後は、一家の内で五人が相分れて、三人はふたりに、ふたりは三人に対立し、
53.また父は子に、子は父に、母は娘に、娘は母に、しゅうとめは嫁に、嫁はしゅうとめに、対立するであろう」。」
「ルカによる福音書」第12章49節~53節

このバプテスマ=洗礼は「磔刑」の事でしょ。死を覚悟しているというより死が普通の人だからね。根本が違うんだから着いて行ける方が「どうかしてるぜ!」(笑)なのかもしれない。

「34.地上に平和をもたらすために、わたしがきたと思うな。平和ではなく、つるぎを投げ込むためにきたのである。
35.わたしがきたのは、人をその父と、娘をその母と、嫁をそのしゅうとめと仲たがいさせるためである。
36.そして家の者が、その人の敵となるであろう。
37.わたしよりも父または母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりもむすこや娘を愛する者は、わたしにふさわしくない。
38.また自分の十字架をとってわたしに従ってこない者はわたしにふさわしくない。
39.自分の命を得ている者はそれを失い、わたしのために自分の命を失っている者は、それを得るであろう。」
「マタイによる福音書」第10章34節~39節

おまけ