参考資料960 | シフル・ド・ノストラダムス

シフル・ド・ノストラダムス

ノストラダムスの暗号解読

謎の宗団クムランは古代ユダヤ秘教の一派
「『死海文書』の年代確定に決定的な役割を果たしたと思われるのが、キルベルト・クムラン遺跡の発掘である。
 この遺跡は、『死海文書』が最初に発見された洞窟から約800メートル離れたところにある。長い間キルベルト・クムランとして知られてきた廃墟で、以前からローマ軍の駐屯地跡だったと思われてきた。縦30メートル、横37メートルの四辺形の廃墟は、岩だらけの台地の上に建っており、その一端にずんぐりした塔が建っている。
 この廃墟の正体と年代を解く鍵は、紀元一世紀の歴史家プリニウスの著作『博物誌』の中にある。
『博物誌』では次のように述べている。

「死海の西岸、有害な蒸気の届かないところに、エッセネという驚くべき一族が住んでいる。そこには、墓所があり、女はひとりもおらず、性的欲望を棄て去り、金銭をもたず、棕櫚を伴侶として生きていた・・・・」

 プリニウスは、好奇心にあふれた学者で、足を使い、自分の目で確かめてものを書くタイプの人間で、ベスビオス火山の噴火口をのぞいている時に窒息死したというエピソードが残っているくらい、現場を重視した人である。その彼の記述であるから、想像や伝聞で書かれたものであるとは思えない。
 キルベルト・クムランは、プリニウスの言う通り、エッセネ派の墓所だったのだろうか?
                        (中略)
 こう見てくると、キルベルト・クムランは、クムラン宗団の修道院跡であり、その宗団が洞窟の文書と密接なつながりをもっていると断定してもよさそうである。
 そして、『死海文書』に記された宗団の規律から推した生活様式は、クムラン宗団が、ユダヤ主義の一派、エッセネ派にきわめて近い存在であることを証明している。
 では、クムラン宗団、あるいはエッセネ派とはいったい何者なのだろう?
                        (中略)
 なぜ、そうまでして人里を離れ、過酷とも言える土地に生活の基盤を置いたのか。いったいクムラン宗団とはいかなる集団だったのか。
 そのあたりのことを、今までにわかっている事実を踏まえ、探ってみることにしよう。
 クムランの遺跡であるキルベルト・クムランに住んだ謎の集団=クムラン宗団については、彼らが原始共産主義的共同体を維持していたこと、厳格な戒律と規則をもっていたこと、浄めの儀式、食事に関する規則、善と悪についての教えなど、さまざまな集団規律を守っていたこと、そしてなにより“選ばれた者”としての強烈な意識をもっていたことなどが、今日までの研究で明らかになっている。
 とくに“選ばれた者”としての意識は、この宗団の大きな特徴と言える。彼らは、みずからを神から霊的啓示を受けた者と規定し、神が生んだ光と闇の霊のただなかに投げ出されてはいるものの、やがて光は闇を克服し、勝利をおさめ、神の救済がなされると信じていたのである。
 原始共産主義的な規則や女人禁制、異常なまでの“終末”への関心といった点から判断して、謎の宗団クムランの実体は、ユダヤ教の一分派=エッセネ派の中核組織ではなかったかという説が、今や定着しつつある。そこで、まず、エッセネ派とはいかなる宗派であったのかを探ってみよう。そうすれば、エッセネ派の中核的組織であったクムラン宗団がいかなるものであったのかが、確実にわかるはずである。」
「封印された《死海文書》の秘密」K.v.プフェッテンバッハ著・並木伸一郎訳より

感想
>「死海の西岸、有害な蒸気の届かないところに、エッセネという驚くべき一族が住んでいる。そこには、墓所があり、女はひとりもおらず、性的欲望を棄て去り、金銭をもたず、棕櫚を伴侶として生きていた・・・・」

因みに、「ヨハネの黙示録」第14章に、

「なお、わたしが見ていると、見よ、小羊がシオンの山に立っていた。また、十四万四千人の人々が小羊と共におり、その額に小羊の名とその父の名とが書かれていた。(中略)彼らは、女にふれたことのない者である。彼らは、純潔な者である。そして、小羊の行く所へは、どこへでもついて行く。彼らは、神と小羊とにささげられる初穂として、人間の中からあがなわれた者である。彼らの口には偽りがなく、彼らは傷のない者であった。」
1節~5節

とあるが、「女にふれたことのない者」とあるが「男にふれたことのない者」とは書かれていない。つまり、「神の言葉」もイエスのように更新しないと時代に合わないという事だろう。どう考えても、選民が男の子供だけとは思えない。(同性愛についても女の同性愛については触れられていないので、やはり時代のせいだろう。)

「9.それとも、正しくない者が神の国をつぐことはないのを、知らないのか。まちがってはいけない。不品行な者、偶像を礼拝する者、姦淫(かんいん)をする者、男娼(だんしょう)となる者、男色をする者、盗む者、
10.貪欲(どんよく)な者、酒に酔う者、そしる者、略奪する者は、いずれも神の国をつぐことはないのである。」
「コリント人への第一の手紙」第6章9節~10節

個人的には、「義」(行為義認+信仰義認)があれば、同性愛者も神の国に入る事が出来ると当然のごとく考えているが。

「34.そのとき、王は右にいる人々に言うであろう、『わたしの父に祝福された人たちよ、さあ、世の初めからあなたがたのために用意されている御国(みくに)を受けつぎなさい。
35.あなたがたは、わたしが空腹のときに食べさせ、かわいていたときに飲ませ、旅人であったときに宿を貸し、
36.裸であったときに着せ、病気のときに見舞い、獄にいたときに尋ねてくれたからである』。
37.そのとき、正しい者たちは答えて言うであろう、『主よ、いつ、わたしたちは、あなたが空腹であるのを見て食物をめぐみ、かわいているのを見て飲ませましたか。
38.いつあなたが旅人であるのを見て宿を貸し、裸なのを見て着せましたか。
39.また、いつあなたが病気をし、獄にいるのを見て、あなたの所に参りましたか』。
40.すると、王は答えて言うであろう、『あなたがたによく言っておく。わたしの兄弟であるこれらの最も小さい者のひとりにしたのは、すなわち、わたしにしたのである』。」
「マタイによる福音書」第25章34節~40節

念のため補足。
「イエスは答えて言われた、「あなたがたは聖書も神の力も知らないから、思い違いをしている。復活の時には、彼らはめとったり、とついだりすることはない。彼らは天にいる御使のようなものである。」(「マタイによる福音書」第22章29節~30節)

「イエスは彼らに言われた、「この世の子らは、めとったり、とついだりするが、かの世にはいって死人からの復活にあずかるにふさわしい者たちは、めとったり、とついだりすることはない。彼らは天使にも等しいものであり、また復活にあずかるゆえに、神の子でもあるので、もう死ぬことはあり得ないからである。」(「ルカによる福音書」第20章34節~36節)

「嫁いだり」という言葉があるから選民には女性もいるね。

おまけ