参考資料876 | シフル・ド・ノストラダムス

シフル・ド・ノストラダムス

ノストラダムスの暗号解読

金はあれども食物なし
「一方、バビロニアの経済はイスラエルとまったく異なり、“金本位制”が基盤だった。律法で禁じられるどころか、高利貸しが利息目当てで金の貸し借りを行うことが美徳とされていたのだ。金銭は、最も実用性のない金属―――金と結びついたため、それ自体に価値がある必需品となった。
 イスラエル人が忌み嫌ったバビロニア人の特徴はほかにもある。バビロニア人たちの盲目的信仰をはじめ、性的乱行、独裁的な政治形態、金銭を社会的に恵まれない人たちのために使わずに、国家の権勢を高める計画に使うことなどだった。バビロニアの王ネブカドネザルが黄金製の像を建て、近隣諸州の財政大臣にその像を拝ませたとき、予言者ダニエルの率いる三人のイスラエル人は、燃えさかる炉に投げこむと脅されても、黄金像を拝むことを拒んだ。イスラエルはバビロンのもろくて不正な経済政策とはまったく相容れなかった。
 わたしたちはいま、あまり賢くない連中から物々交換システムの時代に戻れと勧められている。一見けっこうな方法のようだが、たとえば象を交換物としてバス代を払うとしたら、えらく困るはめになる!
 いにしえの予言者たちは、便利な交換方法として用いるかぎり、金銭の供給はべつに悪いことではないと見ていた。経済が悪疫と化すのは、金銭それ自体が生活必需品として扱われる時だからである。
 今日では通貨の流通によって財産が作られ、また失われる。百万ポンドのお金を米ドルに換えて、ほんの数日で相当な額の利益を得ることもできれば、同じ元金を次には日本円に換えて、また新たな利益を得ることもできる。この百万ポンドは工場を建てたり、団地を造ったりすることには使われず、事業をはじめたり、飢えた人たちに食物を与えたりもしない。ただ売買の必需品として使われたのだ。
 現在、世界にあふれて経済困難を引き起こしている巨額な金は、近い将来、最終的な災厄を引き起こすことになるだろう。
 これまでに述べたことと照らし合わせて、もう一度『黙示録』を読み返してもらいたい。そうすれば“みだらな女たちの母”として表わされた“大バビロン”が意味するのは宗教ではなく、経済だとわかるだろう。もう一度、次の文章を心にとめてほしい。

 地上の王たちは、この女とみだらなことをし・・・・地上の商人たちは、彼女の豪勢なぜいたくによって富を築いたからである・・・・地上の商人たちは、彼女のために泣き悲しむ。もはやだれも彼らの商品を買う者がないからである。
 このような商品を扱って、彼女から富を得ていた商人たちは・・・・遠くに立って・・・・泣き悲しみ・・・・また、すべての船長、沿岸を航海するすべての者、船乗りたち、海で働いているすべての者たちは・・・・彼女が焼かれる煙を見て・・・・泣き悲しんだ。

 この予言には、ローマ・カトリック教会についてふれている部分などまったくない。たとえローマ・カトリック教会があした消えたとしても、世界貿易に与える影響などタカが知れている。だから、商人たちが泣き悲しむこともないだろう―――ただし、彼らがカトリック教徒でなければの話だが。」
「Ⅴ・ダンスタンの終末大予言(下)」ヴィクター・ダンスタン著・幸島研次訳より

感想
>これまでに述べたことと照らし合わせて、もう一度『黙示録』を読み返してもらいたい。そうすれば“みだらな女たちの母”として表わされた“大バビロン”が意味するのは宗教ではなく、経済だとわかるだろう。
>この予言には、ローマ・カトリック教会についてふれている部分などまったくない。

ここから読み始めた人はこちら。http://ameblo.jp/hitorinomeaki/entry-12091366251.html
http://ameblo.jp/hitorinomeaki/entry-12091004198.html
私も従来のキリスト教が黙示録の獣とは現実的には思えないが、仮に真のキリスト教が現れたと仮定すると(終わりの時に)、大らかな心でスルーするとも思えない。十字軍などキリスト教徒の歴史を考えれば潰しにかかるだろう。そう考えると「大淫婦」(大いなるバビロン)の可能性もあるのかなと思う。

「5.その額には、一つの名がしるされていた。それは奥義であって、「大いなるバビロン、淫婦(いんぷ)どもと地の憎むべきものらとの母」というのであった。
6.わたしは、この女が聖徒の血とイエスの証人の血に酔いしれているのを見た
この女を見た時、わたしは非常に驚きあやしんだ。
7.すると、御使はわたしに言った、「なぜそんなに驚くのか。この女の奥義と、女を乗せている七つの頭と十の角のある獣の奥義とを、話してあげよう。
8.あなたの見た獣は、昔はいたが、今はおらず、そして、やがて底知れぬ所から上ってきて、ついには滅びに至るものである。地に住む者のうち、世の初めからいのちの書に名をしるされていない者たちは、この獣が、昔はいたが今はおらず、やがて来るのを見て、驚きあやしむであろう。
9.ここに、知恵のある心が必要である。七つの頭は、この女のすわっている七つの山であり、また、七人の王のことである。
10.そのうちの五人はすでに倒れ、ひとりは今おり、もうひとりは、まだきていない。それが来れば、しばらくの間だけおることになっている。
11.昔はいたが今はいないという獣は、すなわち第八のものであるが、またそれは、かの七人の中のひとりであって、ついには滅びに至るものである。
12.あなたの見た十の角は、十人の王のことであって、彼らはまだ国を受けてはいないが、獣と共に、一時だけ王としての権威を受ける。
13.彼らは心をひとつにしている。そして、自分たちの力と権威とを獣に与える。
14.彼らは小羊に戦いをいどんでくるが、小羊は、主の主、王の王であるから、彼らにうち勝つ。また、小羊と共にいる召された、選ばれた、忠実な者たちも、勝利を得る」。
15.御使(みつかい)はまた、わたしに言った、「あなたの見た水、すなわち、淫婦(いんぷ)のすわっている所は、あらゆる民族、群衆、国民、国語である
16.あなたの見た十の角と獣とは、この淫婦を憎み、みじめな者にし、裸にし、彼女の肉を食い、火で焼き尽すであろう。
17.神は、御言(みことば)が成就する時まで、彼らの心の中に、御旨(みむね)を行い、思いをひとつにし、彼らの支配権を獣に与える思いを持つようにされたからである。
18.あなたの見たかの女は、地の王たちを支配する大いなる都のことである」。 」
「ヨハネの黙示録」第17章5節~18節

補足
>地に住む者のうち、世の初めからいのちの書に名をしるされていない者たちは、この獣が、昔はいたが今はおらず、やがて来るのを見て、驚きあやしむであろう。

裏を返せば、「いのちの書」に名を記されている者たちは、やはり来たかと思うのか。因みに、この「いのちの書」は13章8節にも出て来る。
「地に住む者で、ほふられた小羊のいのちの書に、その名を世の初めからしるされていない者はみな、この獣を拝むであろう。」
また、続きの10節に「とりことなるべき者は、とりこになっていく」とあり「とりことなる者は、とりこになっていく」ではない所を見ると、やはり選別が目的でそれは生まれた時から決まっているという事か。(「悔い改めよ、さらば救われん」とか言うけど、結局「悔い改め」が出来る魂は生まれ付き決まっているのか。しょぼん

おまけ