参考資料875 | シフル・ド・ノストラダムス

シフル・ド・ノストラダムス

ノストラダムスの暗号解読

“終わりの時に倒れる大バビロン”は何を指すか?
「古代の予言者たちにとって、バビロンは政治的な帝国というより、イスラエルとは正反対の生活方法と政府の方針をさしていた。
 残念なことに、神学者たちは何代にもわたって、十戒と、豚肉の塩漬けや貝を食べるのを禁じることが、予言者の語る律法のすべてだと教えるだけですませてきた。その結果、予言者が残したのは個人、家族、国家を導くための、広範囲にわたる法典だったのだということが正しく認識されたことはほとんどない―――この法典は、道徳基準、人民の代表決定、法律と司法、収入の何パーセントを徴収すべきかまで説明した国税法、職場と家庭での安全、社会福祉、第三者の責任、移民法、そしてもちろん宗教の実践と、あらゆる項目にわたっていたのだ。《姦淫してはならない》といういましめは、律法のほんのごく一部にすぎなかったのである。
 古代の予言者たちが経済について書いていたなどというと、失笑を買いかねないが、事実そうだったのだ。彼らが宣告した経済法では、極端な貧富の差をなくすことが保証されていた。彼らは社会の全階層に対してなすべき義務を説き、その実践を要求した。むろん権利も認められ、あらゆる階層に与えられていた。勤勉な生活を送る者は利益を得るし、仕事をなまける者には罰が与えられる仕組みになっていた。
“民衆の敵”という概念はなかった。他人にそむくことは、そのまま“主”にそむくことだから、すぐ厳罰に処せられる決まりだったのである。
 予言者たちの定めた戒律を守りつづけるかぎり、それは理にかなった農業政策でもあったから、国家の土地は肥沃に保たれた。“公民権”は罪なき者の財産であると信じられ、「罪のない者などいるのか?」といった愚かな疑問に耳をかす人などはいなかったから、破壊行為や暴力も一掃された。生命は“神聖な権利”ではなく“神聖な特権”だったから、それを他人から奪う者は、自分の生きる権利を犠牲にしてあがなうのが当然だった。
 昔の人びとは恐れながら生きていた―――現代でも人びとは恐れながら生きている。ただし、昔恐れながら生きたのは、罪のある者だったが、現代では恐れながら生きるのは罪なき者なのだ! 今日わたしたちは、犯罪者の“公民権”をしきりに話題にするが、そのために、黙って法に従う大多数の人びとを忘れてはいないだろうか。それら大多数の民衆は“公民権”を失い、落ち着いて安全に通りを歩くことも、泥棒に入られる心配なしに家を空けることもできなければ、望みどおり平和な生活を送ることもできないのだ。
 神の裁きは、犯罪者の理解に少々欠けるようだ。が、その不足をおぎなって余りあるのは、犯罪者が神の裁きをはっきり意識している点だろう。
 昔の人間たちは、人も土地も財産も“主なる神”の所有だったから、法に従うかぎり自由だった。土地や財産は“主なる神”のもので、生きているあいだ一個人が借り受けるものだから、莫大な富を蓄える必要もなかった。懸命に土地を耕して豊かに暮らせれば、さらに真剣に働くだろうし、全然働かなければ、飢えるだけだった。働けない人びとには国家規模の援助機関があったが、働かない連中のための機関はなかった。そんな連中が飢えても、だれも見向きもしなかった。
 蓄えた富を世代から世代へと引き継ぐことはできなかったが、土地財産を借り受けるこの方式に従うかぎり、子孫のための財産を貯える必要はなかった。次の世代の者は割り当てられた土地で、自分なりに一生努力して、豊かに暮らす工夫をすればよかったからだ。
 古代のイスラエルでは、投機ではなく生産することが、成功への道だったのである。」
「Ⅴ・ダンスタンの終末大予言(下)」ヴィクター・ダンスタン著・幸島研次訳より

感想
>《姦淫してはならない》といういましめは、律法のほんのごく一部にすぎなかったのである。

姦淫」とは、いわゆる「不倫」の事だが、キリスト教では頭の中で思っただけでもいけない。

「『姦淫するな』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。しかし、わたしはあなたがたに言う。だれでも、情欲をいだいて女を見る者は、心の中ですでに姦淫したのである。」
「マタイによる福音書」第5章27節~28節

>“公民権”は罪なき者の財産であると信じられ、「罪のない者などいるのか?」といった愚かな疑問に耳をかす人などはいなかったから、破壊行為や暴力も一掃された。

この文章にはちょっと疑問を感じる。というのは「ヨハネによる福音書」第8章にこうあるから。

「すると、律法学者たちやパリサイ人たちが、姦淫をしている時につかまえられた女をひっぱってきて、中に立たせた上、イエスに言った、「先生、この女は姦淫の場でつかまえられました。モーセは律法の中で、こういう女を石で打ち殺せと命じましたが、あなたはどう思いますか」。彼らがそう言ったのは、イエスをためして、訴える口実を得るためであった。しかし、イエスは身をかがめて、指で地面に何かを書いておられた。彼らが問い続けるので、イエスは身を起して彼らに言われた、「あなたがたの中で罪のない者が、まずこの女に石を投げつけるがよい」。そしてまた身をかがめて、地面に物を書きつづけられた。これを聞くと、彼らは年寄から始めて、ひとりびとり出て行き、ついに、イエスだけになり、女は中にいたまま残された。そこでイエスは身を起して女に言われた、「女よ、みんなはどこにいるか。あなたを罰する者はなかったのか」。女は言った、「主よ、だれもございません」。イエスは言われた、「わたしもあなたを罰しない。お帰りなさい。今後はもう罪を犯さないように」。」(「ヨハネによる福音書」第8章3節~11節)

皆、罪を犯した事があると思っているのだろう。キリスト教的な頭の中で姦淫をした事があるという事かな。

因みに、本当の「終わりの時」には次元が違くなるらしい。

「イエスは答えて言われた、「あなたがたは聖書も神の力も知らないから、思い違いをしている。 復活の時には、彼らはめとったり、とついだりすることはない。彼らは天にいる御使(みつかい)のようなものである。」
「マタイによる福音書」第22章29節~30節

「イエスは彼らに言われた、「この世の子らは、めとったり、とついだりするが、かの世にはいって死人からの復活にあずかるにふさわしい者たちは、めとったり、とついだりすることはない。彼らは天使に等しいものであり、また復活にあずかるゆえに、神の子でもあるので、もう死ぬことはあり得ないからである。」
「ルカによる福音書」第20章34節~36節

不倫なんかしようがないね。(結婚してないんだから。)

「なお、わたしが見ていると、見よ、小羊がシオンの山に立っていた。また、十四万四千の人々が小羊と共におり、その額に小羊の名とその父の名とが書かれていた。(中略)この歌は、地からあがなわれた十四万四千人のほかは、だれも学ぶことができなかった。彼らは、女にふれたことのない者である。彼らは、純潔な者である。そして、小羊の行く所へは、どこへでもついて行く。彼らは、神と小羊とにささげられる初穂として、人間の中からあがなわれた者である。彼らの口には偽りがなく、彼らは傷のない者であった。」
「ヨハネの黙示録」第14章1節~5節

何の根拠もないが、マヤの予言が2012年12月21日で終わっている所を見ると、それ以後が新しい周期なのでそれ以降に生まれた子供達か(親が特別な信仰でも持っているんだろうね)。ただし、うるう年を入れると2015年9月3日以降らしいが。
何にしても普通の人はこちら。http://ameblo.jp/hitorinomeaki/entry-12013275624.html(「ダニエル書」と「ルカによる福音書」)

おまけ