参考資料757 | シフル・ド・ノストラダムス

シフル・ド・ノストラダムス

ノストラダムスの暗号解読

イエスは第一次大戦を予言した
「読者のみなさんは、イエスが未来の出来事を予言していたのをご存じだろうか。彼が1914~1918年(第一次世界大戦)の戦争の重要な戦いのみならず、これに前後する事件をもふくめて予言したと聞けば、さぞ驚かれることだろう。
 前章で述べたとおり、イエスは史上最も謎にみちた人物なのだ。ここまでは、諸君もわたしの意見に同意してくれると思う。それでもイエスが第一次世界大戦を予言したというのは、まだ信じがたいと思われるかもしれない。よろしい、先を読み進んでくれたまえ。
 わたしといっしょに時間の流れをさかのぼって、オリーブ山に行こう。そこに集まっているのは、イエスと弟子たちだ。弟子たちははためにもはっきりわかるほど不安がっている。そのわけは、イエスが彼らの都市や土地から憎むべきローマ人を追い出すそぶりをいっこうに見せないからだ。弟子たちは、“神なる救世主”がイスラエル王国を再建することを望んでいた。なのに、いまは彼にそんなことをする力があるかどうか危ぶみだしている。期待された愛国的情熱を示す気配もないばかりか、ユダヤ国民を率いて圧政者に反乱を起こす様子もないからだ。
 最近、イエスはユダヤ教の聖職者集団に対する激しい攻撃を口にしたばかりだった。律法学者やパリサイ派の人びとを口をきわめて非難したのだ。彼は相手を“マムシ”、“ヘビ”と呼び、どうやって“地獄の罰”からのがれるつもりか問いかけた。熱烈ではあるが、友人をふやし、人びとを動かす態度とはとても言えない。
 数時間前にも、弟子たちは、イエスが彼らの最愛の都市エルサレムをめぐって言った言葉に意気消沈した。

 おお、エルサレム、エルサレム、予言者たちを殺し、自分に遣わされた人びとを石で打ち殺す者よ、めん鳥が雛を羽の下に集めるように、わたしはお前の子らを何度集めようとしたことか。だが、お前たちは応じようとしなかった。見よ、お前たちの家は見捨てられて荒れ果てる。
マタイによる福音書 23章37節

 かなたに神殿の黄金の門をのぞみ、足下にゲッセマネの園を見下ろす山腹に座った弟子たちのあいだには、すてばちな気分が広がっていたはずだ。この人に少しでも民族主義的情熱をかきたてる手段は、とてもありそうもないと感じていたかもしれない。弟子たちがイエスに、町中で最も神聖な場所、つまり神殿の建物を指したとき、イエスはしごく奇妙な言葉を口にしたのだ。

 イエスが神殿の境内を出て行かれると、弟子たちが近寄ってきて、イエスに神殿の建物を指さした。そこで、イエスは言われた。「これらすべての物を見ないのか。はっきり言っておく。一つの石もここで崩されずに他の石の上に残ることはない」
マタイによる福音書 24章1,2節

 弟子たちの行動は想像がつく。「先生、さあ、ごらんなさい、神殿を。なんて見事な建物でしょう。この壮大さと華やかさを見れば、誇りで胸が一杯になりませんか」つまらないことを言ったものだ。返ってきたのは、「一つの石もここで崩されずに他の石の上に残ることはない」という返事だった。
 いまとなってはこの人物を理解しようとする以外、どんな手立てがあるだろう。弟子たちの忠誠心はゆるがなかったが、イエスが救世主だという信念はぐらつきはじめた。救世主が行うはずの行為をイエスがするしるしは、どこにも見えなかった。ただ破局が間近に迫りつつあることははっきりわかっていた。支配階級はイエスが自分たちに浴びせた攻撃を好まないばかりか、目下このナザレの予言者を葬るべく陰謀を練っているだろうことは重々承知していたからである。
 そういうわけで、オリーブ山上に座った弟子たちは、そのとき脳裏を占めていた疑問をぶつけたのだった。

 イエスがオリーブ山で座っておられると、弟子たちがやって来て、ひそかに言った。「おっしゃってください。そのことはいつ起こるのですか。また、あなたが来られて世の終わるときには、どんなしるしがあるのですか。」
マタイによる福音書 24章3節」
「Ⅴ・ダンスタンの終末大予言(上)」ヴィクター・ダンスタン著・幸島研次訳より

感想
>読者のみなさんは、イエスが未来の出来事を予言していたのをご存じだろうか。彼が1914~1918年(第一次世界大戦)の戦争の重要な戦いのみならず、これに前後する事件をもふくめて予言したと聞けば、さぞ驚かれることだろう。

絶対にそんな予言してないね。まぁ、どんなシンクロニシティーを用意しているのかは楽しみだが。イエスやノストラダムスは「終わりの時」のこと以外予言する必要がないだろう。というより、マッハで飛ぶ戦闘機とか異常な破壊力のある爆弾とか理解出来たのか。それらが理解出来たとしても原爆の原理とか放射能とか理解していたとは思えない。あなたがどんなに頭が良くても2000年後の西暦4000年頃の世界を理解出来るのだろうか。
因みに、「終わりの時」は「北斗の拳」の世界や「風の谷のナウシカ」の世界のように一度世界が壊滅してシンプルな世界になっているからイエスも予言出来ると考えている。だからこそ、イエスを補佐するような者が必要なのだろう。イスラム教では「終わりの時」にはイエス・キリストともう1人の救世主が現れる事になっているらしい。ほふられた小羊か。

>期待された愛国的情熱を示す気配もないばかりか、ユダヤ国民を率いて圧政者に反乱を起こす様子もないからだ。

「汝の敵を愛せよ」とか言っていたら当然の事だと思うが。

>最近、イエスはユダヤ教の聖職者集団に対する激しい攻撃を口にしたばかりだった。律法学者やパリサイ派の人びとを口をきわめて非難したのだ。彼は相手を“マムシ”、“ヘビ”と呼び、どうやって“地獄の罰”からのがれるつもりか問いかけた。熱烈ではあるが、友人をふやし、人びとを動かす態度とはとても言えない。

「汝の敵を愛せよ」じゃないのか。言っている事とやっている事が違うという事は簡単だが、イエス・キリストは次元が違うというのが私の見解であり、次元の違うものを自分の価値観で判断するのは危険である。というより愚か者の思考だろう。

>弟子たちの行動は想像がつく。「先生、さあ、ごらんなさい、神殿を。なんて見事な建物でしょう。この壮大さと華やかさを見れば、誇りで胸が一杯になりませんか」つまらないことを言ったものだ。返ってきたのは、「一つの石もここで崩されずに他の石の上に残ることはない」という返事だった。
 いまとなってはこの人物を理解しようとする以外、どんな手立てがあるだろう。弟子たちの忠誠心はゆるがなかったが、イエスが救世主だという信念はぐらつきはじめた。

弟子たちは人格者なのかな。偉いよね。(尊敬)ただし、イエスの奇跡(治癒とかの超能力)に魅了されていたら話は別だけど。

おまけ