参考資料751 | シフル・ド・ノストラダムス

シフル・ド・ノストラダムス

ノストラダムスの暗号解読

救世主に対する嘲り
「わたしを見る人は皆、わたしを嘲笑い、唇を突き出し、頭を振る。
詩編 22編7節

 イエスと同時代の記録によれば、

 そこを通りかかった人々は、頭を振りながらイエスをののしった。
マタイによる福音書 27章39節

 読者のみなさんがどの程度人間を知っているかはわからないが、わたしには人間性というものをたっぷり見せつけられた経験がある。だがあれも、新たな認識というより、すでに知っていたことを確信させられただけなのかもしれない。わたしが再建しようと四苦八苦していたのは、幾人もの会計士が破産させるべきだと言って見離した企業だった―――損失が年ごとに膨大になる一方というありさまだったのだ―――それが無理ならば可能なかぎり穏やかに、波風をたてずにその会社を葬ることだった。わたしはその役目を押しつけられたのだ!“専門家”はひとり残らずいなくなってしまった。
 ところが、事業はしだいに波に乗りはじめた。金が流れこんできだしたと思ったら、たちまち莫大な利益があがるようになった。とたんに、人びとが群がってきはじめたのだ!だれもが栄光のお裾わけにあずかろうとした。会計士たちが急に関心を寄せてきた。ほかの重役たちが、経営コンサルタントが、さらには建築家までもが関心を寄せはじめた。事業が好調に転じるやいなや、だれもかれもが息を吹きかえして、“嘴をいれ”ようとしはじめたように思えた。
 そして、なんということだろう、彼らは口ぐちに、はじめからどうすれば会社を救えるかはわかっていたと言うのだ。彼らによれば、実行はしなかったが方法は知っていたのだそうだ。わたしにはちらりとも教えてもくれなかったが、方法は知っていたのだそうだ。もっとも、彼らがとりわけ下劣なわけではない。わたしたちはみなちょっとした栄光を自分のものにしたがるし、世の中の成功した物事とかかわりを持ちたがるし、他人より少しだけ世間を知っているふりをしたがる。自分を失敗の影の中に置きたがったり、周囲に敗北者と見られたがる者はいない。
 弟子たちがイエスに、自分たちのうちだれが神の国でいちばん偉大な者になるかと訊くなら、それはいかにも人間くさい行為と言える。だが、みずからの不名誉を書き残すという行為は、もちろん金のためである場合をべつにすれば、人間性に反している。
 キリストの生まれる五百二十年前にゼカリヤは、《羊飼いは打たれ、羊の群れは散らされる》と予言した(ゼカリヤ書 13章7節)。普通なら、救世主が打たれているのに逃げだしてしまったことなど絶対に認めたりしないものだ。偉大な人物の信奉者が《わたしは師に忠実であった》とか《だれもが師を見捨てたときに、わたしはかたわらにつき従っていた》と言った例ならいくらでもある。だが、自分たちの指導者、あるいは偉大な男が最も助けを必要としているときに自分が逃げだしてしまったことを記録に残す者など、偉大さを身につけようとしている人びとの中にいるだろうか?
 マタイの記述によれば、

 弟子たちは皆、イエスを見捨てて逃げてしまった。
マタイによる福音書 26章56節

 この福音書の作者であるマタイは弟子のひとりだった。どうしてマタイは《わたしを除いて皆》と書かなかったのだろう?世間に影響をおよぼそうという意図を持ちながら、マタイはみずから臆病者であることを認めた。マタイはなぜ自分の不名誉になるようなことを書いたのだろう?なぜなら、それが真実だからだ。記述のとおりの出来事が起こったからだ。《弟子たちは皆、イエスを見捨てて逃げてしまった》のである。」
「Ⅴ・ダンスタンの終末大予言(上)」ヴィクター・ダンスタン著・幸島研次訳より

感想
>そして、なんということだろう、彼らは口ぐちに、はじめからどうすれば会社を救えるかはわかっていたと言うのだ。彼らによれば、実行はしなかったが方法は知っていたのだそうだ。わたしにはちらりとも教えてもくれなかったが、方法は知っていたのだそうだ。

クズですな。( ´艸`)
ただし、この程度で「読者のみなさんがどの程度人間を知っているかはわからないが、わたしには人間性というものをたっぷり見せつけられた経験がある」とは大袈裟ですな。私が見てきたのはこんなレベルじゃないね。

>弟子たちがイエスに、自分たちのうちだれが神の国でいちばん偉大な者になるかと訊くなら、それはいかにも人間くさい行為と言える。

昨日まで私は、イエス・キリストも磔刑の時には「神よ、神よ、何故私を見捨てたもうた」と叫んだと思っていたので解脱はしていない人間レベルなんだろうなぁと思っていたが、旧約聖書にそのセリフが初めからある事を知り、やはりイエス・キリストは次元が違う神の子と思うようになった。

「ここにひとりの人があって、神からつかわされていた。その名をヨハネと言った。この人はあかしのためにきた。光についてあかしをし、彼によってすべての人が信じるためである。彼は光ではなく、ただ、光についてあかしをするためにきたのである。
 すべての人を照すまことの光があって、世にきた。
 彼は世にいた。そして、世は彼によってできたのであるが、世は彼を知らずにいた。彼は自分のところにきたのに、自分の民は彼を受けいれなかった。しかし、彼を受けいれた者、すなわち、その名を信じた人々には、彼は神の子となる力を与えたのである。それらの人は、血すじによらず、肉の欲によらず、また、人の欲にもよらず、ただ神によって生れたのである。
 そして言は肉体となり、わたしたちのうちに宿った。わたしたちはその栄光を見た。それは父のひとり子としての栄光であって、めぐみとまこととに満ちていた。
 ヨハネは彼についてあかしをし、叫んで言った、『わたしのあとに来るかたは、わたしよりもすぐれたかたである。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この人のことである」。わたしたちすべての者は、その満ち満ちているものの中から受けて、めぐみにめぐみを加えられた。律法はモーセをとおして与えられ、めぐみとまこととは、イエス・キリストをとおしてきたのである。神を見た者はまだひとりもいない。ただ父のふところにいるひとり子なる神だけが、神をあらわしたのである。
 さて、ユダヤ人たちが、エルサレムから祭司たちやレビ人たちをヨハネのもとにつかわして、「あなたはどなたですか」と問わせたが、その時ヨハネが立てたあかしは、こうであった。すなわち、彼は告白して否まず、「わたしはキリストではない」と告白した。そこで、彼らは問うた、「それでは、どなたなのですか、あなたはエリヤですか」。彼は「いや、そうではない」と言った。「では、あの預言者ですか」。彼は「いいえ」と答えた。
 そこで、彼らは言った、「あなたはどなたですか。わたしたちをつかわした人々に、答を持って行けるようにしていただきたい。あなた自身をだれだと考えるのですか」。彼は言った、「わたしは、預言者イザヤが言ったように、『主の道をまっすぐにせよと荒野で呼ばわる者の声』である」。
 つかわされた人たちは、パリサイ人であった。彼らはヨハネに問うて言った、「では、あなたがキリストでもエリヤでもまたあの預言者でもないのなら、なぜバプテスマを授けるのですか」。ヨハネは彼らに答えて言った、「わたしは水でバプテスマを授けるが、あなたがたの知らないかたが、あなたがたの中に立っておられる。
 それがわたしのあとにおいでになる方であって、わたしはその人のくつのひもを解く値うちもない」。これらのことは、ヨハネがバプテスマを授けていたヨルダンの向こうのベタニヤであったのである。
 その翌日、ヨハネはイエスが自分の方にこられるのを見て言った、「見よ、世の罪を取り除く神の小羊。『わたしのあとに来るかたは、わたしよりもすぐれたかたである。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この人のことである。わたしはこのかたを知らなかった。しかし、このかたがイスラエルに現れてくださるそのことのために、わたしはきて、水でバプテスマを授けているのである」。ヨハネはまたあかしをして言った、「わたしは、御霊がはとのように天から下って、彼の上にとどまるのを見た。わたしはこの人を知らなかった。しかし、水でバプテスマを授けるようにと、わたしをおつかわしになったそのかたが、わたしに言われた、『ある人の上に、御霊が下ってとどまるのを見たら、その人こそは、御霊によってバプテスマを授けるかたである』。わたしはそれを見たので、このかたこそ神の子であると、あかしをしたのである」。」
「ヨハネによる福音書」第1章6節~34節

>それがわたしのあとにおいでになる方であって、わたしはその人のくつのひもを解く値うちもない。
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q10119723840
(「あなたがたに言っておく。女の産んだ者の中で、ヨハネより大きい人物はいない。しかし、神の国で最も小さい者も、彼よりは大きい。」「ルカによる福音書」第7章28節)

おまけ