参考資料749 | シフル・ド・ノストラダムス

シフル・ド・ノストラダムス

ノストラダムスの暗号解読

神なる救世主のはりつけは千年前に予言されていた
「わたしの手足を貫いた。
詩編 22編16節

 説明の必要はないだろう。イエスが十字架にはりつけにされたことはだれでも知っているはずだ。イエスの手足は貫かれたのである。
 これまで見てきたように、古代の予言者は未来の出来事をしばしば過去形で語る。
 そのこともまた、彼らが霊感を受けて語っている証拠である。未来を予言しようという人間が、過去形を使って文章を書き、《わたし》という人称を選んだのは、一見奇異に思えるだろう。
 だが、ちょっと考えてみれば、もっともだとわかる。もしもメッセージが大いなる“宇宙精神”(あるいは“神”を意味するほかの遠回しな言い方でもかまわないが、ともかくそのような存在)から伝えられるものであって、十字架にかけられた救世主がその大いなる“宇宙精神”だったとしたら、一人称が使われるのも当然ではないか。
 では、過去形は?『ヨハネの黙示録』の《天地創造のときから屠られた小羊》(13章8節)という、救世主を指す記述を読めば、疑問は解けるだろう。
 過去形が使われているのは、予言された出来事はすべて、永遠の観点から語られているからだ。だからイエスは《アブラハムが生まれる前から、わたしはある》(ヨハネによる福音書 8章58節)と言ったのである。これもまた、古代の予言者たちの統一性を示す好例のひとつだ。
 イスラエル人の祭司たちがほんのちょっと記述を手直ししておけば、一人称と過去形に関してあれこれ詮索されることもなかっただろう。彼らはどうして予言をもっとわかりやすくしてしまわなかったのだろう?それは彼らは予言が霊感によって書かれたと信じていたからだ!
 救世主がはりつけにされることがその出来事の千年前に予言され、しかもそう予言されたのがイスラエルではりつけの刑が知られるようになる何百年も前だったことだけでも充分に神秘的だが、予言の神秘はそれだけにとどまらない。予言者たちは、救世主がはりつけにされるという事実を予言しただけでなく、その出来事が起こる何百年も前に、その場面の細部をことごとく述べているのだ。
 十字架にかけられた救世主がなんと言うかが予言された。十字架の下でローマの兵士たちが口にする正確な言葉が予言された。ローマの兵士たちがイエスにどんな飲物を与えるか、彼らがどんなことをするかが予言されていたのである。」
「Ⅴ・ダンスタンの終末大予言(上)」ヴィクター・ダンスタン著・幸島研次訳より

感想
>だからイエスは《アブラハムが生まれる前から、わたしはある》(ヨハネによる福音書 8章58節)と言ったのである。

法華経の地涌の菩薩の話を連想した。

「ブッダが、「わたしの滅後にこの法華経を護持して説きひろめる者はいないか」と言ったとき、他方のもろもろの国土から来ていた大勢の菩薩たちが、
「もしお許しくださいますならば、わたくしどもがその任に当たりたいと存じますが、いかがでしょうか」と申し上げた。すると、ブッダはそくざに
「その必要はありません。この娑婆世界には無数の菩薩がおり、その役目はその人たちがやってくれるはずです」
と答えた。
 その瞬間に、大地に無数の割れ目ができ、そこから尊い相をそなえた菩薩たちが、かぞえきれないほどわき出してきたのである。
                            (中略)
 さて、地中から涌出した菩薩たちの中の指導者格である上行・無辺行・浄行・安立行という四大菩薩は、ブッダの前に進み出て挨拶すると、ブッダはまるで旧知に会ったように親しげに答えた。
 その有様を拝していた弥勒菩薩をはじめとする娑婆世界の菩薩たちは―――このような立派な菩薩がたは、いったいどういう人たちなのだろうか―――という疑いを起こした。そして、そのことをブッダに尋ねると、
「大地からわき出したこの菩薩たちは、わたしが娑婆世界で悟りをひらいてから教化したもので、いままで娑婆世界の下の虚空に住していた者である。ところが、真実のところをいえば、この菩薩たちはわたしが久遠のむかしから教化していたのである。」
 との答えである。さあ、いよいよわからなくなった。たまりかねた弥勒菩薩は、かさねて質問した。
「世尊が仏の悟りを得られてから四十年余りしかたっておりません。その間わたくしどもはずっとおそばに仕えておりましたのに、こういう菩薩方を見たことはありません。しかも、世尊は、『久遠のむかしからこの菩薩たちを教化してきた』とおおせられます。
 わたくしどもにはどうしてもフに落ちません。まるで、二十五歳の青年が百歳の老人を指して『これはわが子だ』といい、また百歳の老人が若者を指して『この人はわが父である。わたしを育ててくれた人である』というようなものでございます。
 どうぞ、この疑問をお解きくださいませ」とお願いしたところで、この品は終わりとなる。
                            (中略)
 聖書のヨハネ伝の第8章56~58節にこんな問答がある。イエス・キリストがユダヤ人たちに、
「そこで私は君たちの問いに率直に答えるが、君たちの父祖アブラハムは、私が世に現われる日を見るのを楽しみにしていた。いや、アブラハムは実際私を見て喜んだのだ」
と言った。アブラハムとは、当時より二千年も前に在世していたユダヤ人たちの祖先で、至高の人格者として仰がれていた人である。
 そこでユダヤ人たちはイエスに言った。
「お前はまだ五十歳にもならないくせに、アブラハムを見たことがあるのか」
 イエスは答えた。
「私は君たちに真実を告げる。アブラハムが生まれる前から、私は存在していたのだ」
 ここにわれわれは、東西の両超大聖者の、時空を超越した存在としての一致を見ることができる。」
「法華経は大予言の書だった」山下民城著(1986年)より

あまり関係ないかもしれないが、「ヨハネの黙示録」第7章13節~17節に、

「長老たちのひとりが、わたしにむかって言った、「この白い衣を身にまとっている人々は、だれか。また、どこからきたのか」。 わたしは彼に答えた、「わたしの主よ、それはあなたがご存じです」。すると、彼はわたしに言った、「彼らは大きな患難をとおってきた人たちであって、その衣を小羊の血で洗い、それを白くしたのである。それだから彼らは、神の御座の前におり、昼も夜もその聖所で神に仕えているのである。御座にいますかたは、彼らの上に幕屋を張って共に住まわれるであろう。彼らは、もはや飢えることがなく、かわくこともない。太陽も炎暑も、彼らを侵すことはない。御座の正面にいます小羊は彼らの牧者となって、いのちの水の泉に導いて下さるであろう。また神は、彼らの目から涙をことごとくぬぐいとって下さるであろう」。 」

とある。

おまけ
https://www.youtube.com/watch?v=pr12RbvsOW8