参考資料748 | シフル・ド・ノストラダムス

シフル・ド・ノストラダムス

ノストラダムスの暗号解読

神なる救世主の生と死
「これまで述べてきたように、ユダヤ人たちの信仰によれば、救世主が降臨すれば彼らの国は解放され、平和が訪れ、神が父祖ダビデの玉座について永遠に君臨するのだった。したがって、“神なる救世主”のを予告した予言者がいたのは、じつに驚くべきことだ。また、そのような予言が、ユダヤ教の予言全集に残されたことも驚かされる。“神なる救世主”の死、というのは矛盾した言い回しのように思えるのだが、紀元前1000年、ダビデ王を通じて以下の予言がもたらされている。

 わたしは水となって注ぎ出され、骨はことごとくはずれ、心は胸の中でロウのように溶ける。
 口は渇いて素焼きのかけらとなり、舌は上顎にはり付く。あなたはわたしを塵と死の中に打ち捨てる。犬どもがわたしを取り囲み、さいなむ者が群がってわたしを囲み、わたしの手足を貫く。
 骨が数えられる程になったわたしのからだを、彼らはさらしものにして眺め、わたしの着物を分け、衣を取ろうとしてくじを引く。
詩編  22編14~18節

 この予言の驚異を充分に認識するためには、当時のイスラエルにおける死刑は、はりつけではなく石打ちによって行われたことを頭に入れておかなければならない。『旧約聖書』のどこを開いても、はりつけによる死刑について述べた箇所を見つけることはできない。だが、救世主の降臨を見通していた詩編の作者ダビデには、彼の死後何百年もたってからローマ人たちに好まれるようになる処刑方式を完璧に描きだすことができたのである。
 陰鬱なはりつけのありさまがこと細かに予言されてから千年後、その光景はゴルゴタの丘で現実になった。こうしたことを考慮すれば、イエスの死が殉教だったのかどうかがわかるだろう。はりつけの刑はとんでもない間違いだったのだろうか、それとも弟子たちが主張するように、大いなる“宇宙精神”の計画が実現したのだろうか?
 裏切りとはりつけのあいだには何があったのだろう?予言者はこの期間の出来事を何か予言しているだろうか?もちろん、イエスがはりつけになる七百年前に、イザヤがこのような予言をしていたのだ。

 苦役を課せられて、かがみ込み、彼は口を開かなかった。屠り場に引かれる小羊のように、毛を切る者の前に物を言わない羊のように、彼は口を開かなかった。
イザヤ書 53章7節

 今度は、イエスが裁判の日に、処刑を許可したローマの総督ポンティウス・ピラトの前でどのようにふるまったか、目撃者の記述を読んでみよう。

 祭司長たちや長老たちから訴えられている間、これには何もお答えにならなかった。するとピラトは、「あのようにお前に不利な証言をしているのに、聞こえないのか」と言った。それでも、どんな訴えにもお答えにならなかったので、総督は非常に不思議に思った。
マタイによる福音書 27章12~14節

 ふたたびイザヤである。べつの声が、キリストが生まれる七百年前、イザヤにこう語りかけた。

 打とうとする者には背中をまかせ、顔を隠さず嘲りと唾を受けた。
イザヤ書 50章6節

 予言者ミカはキリストの八百年前、次のように述べた。

 彼らはイスラエルを治める者の頬を杖で打つだろう。
ミカ書 5章1節

 それでは、実際に救世主の身にどんなことが起こったのか、同時代の記録を読んでみよう。

 また、唾を吐きかけ、葦の棒を取り上げて頭をたたきつづけた。
マタイによる福音書 27章30節

そこで、ピラトはイエスを捕らえ、鞭で打たせた。
ヨハネによる福音書 19章1節

 古代の予言者によれば、“神なる救世主”は次のような仕打ちを受けるはずだった。
★ 背中を打たれる。
★ 頬を杖で殴られる。
★ 顔に唾を吐きかけられる。
 これら三つはたしかにナザレのイエスの身に起こったことだった!ダビデ王を通じて、“神なる救世主”はこうも予言している。

 不法の証人が数多く立ち、わたしを追及しますが、わたしの知らないことばかりです。
詩編 35編 11節

 次の引用は、イエスと同時代の作者による事件の報告である。

 さて、祭司長たちと最高法院の全員は、死刑にしようとしてイエスにとって不利な偽証を求めた。
マタイによる福音書 26章59節

 予言者が目にした未来の光景の中で、唾を吐きかけられ、打たれ、はずかしめられていたのはだれだった?“救世主、無敵の神、永遠の父、平和の君”だ。そのような神の化身が、そんなひどい目に遭うなどという予言以上に、実現の可能性の低い予言があるだろうか?そのような物語が、人間の精神に思いつけるものだろうか?敵を打ち破る英雄の予言なら考えられる。指導者が革命を成功に導く予言や、王が戦さに勝つ予言なら不思議はない。だが、ここで述べたような“神なる救世主”に対する徹底的なはずかしめ、さらにはその死まで予言する者は、狂人なのか霊感を授かったのか、そのどちらかにちがいない。」
「Ⅴ・ダンスタンの終末大予言(上)」ヴィクター・ダンスタン著・幸島研次訳より

感想
>彼らはイスラエルを治める者の頬を杖で打つだろう。
ミカ書 5章1節

因みに、ノストラダムスの詩にこんなものがある。

2章29番の詩
東洋人が彼の本拠地から出て来るだろう
アペニン山脈を越えてゴール(現在のフランスあたり)を見る
空、海と雪を越えて伝えるだろう
一人に対して誰もが長い棒で叩くだろう   (15年以上前の自分の訳・原文はロバーツ本)
http://www42.atwiki.jp/nostradamus/pages/575.html(ただし、4行目は逆かもしれない。)

「ときに、バラバという評判の囚人がいた。それで、彼らが集まったとき、ピラトは言った。「おまえたちは、だれをゆるしてほしいのか。バラバか、それとも、キリストといわれるイエスか」。彼らがイエスを引きわたしたのは、ねたみのためであることが、ピラトにはよくわかっていたからである。また、ピラトが裁判の席についていたとき、その妻が人を彼のもとにつかわして、「あの義人には関係しないでください。わたしはきょう夢で、あの人のためにさんざん苦しみましたから」と言わせた。しかし、祭司長、長老たちは、バラバをゆるして、イエスを殺してもらうようにと、群衆を説き伏せた。総督は彼らにむかって言った、「ふたりのうち、どちらをゆるしてほしいのか」。彼らは「バラバの方を」と言った。ピラトは言った、「それではキリストといわれるイエスは、どうしたらよいか」。彼らはいっせいに「十字架につけよ」と言った。しかし、ピラトは言った、「あの人は、いったい、どんな悪事をしたのか」。すると彼らはいっそう激しく叫んで、「十字架につけよ」と言った。ピラトは手のつけようがなく、かえって暴動になりそうなのを見て、水を取り、群衆の前で手を洗って言った、「この人の血について、わたしには責任がない。おまえたちが自分で始末をするがよい」。すると、民衆全体が答えて言った、「その血の責任は、われわれとわれわれの子孫の上にかかってもよい」。そこで、ピラトはバラバを許してやり、イエスをむち打ったのち、十字架につけるために引きわたした。」
「マタイによる福音書」第27章16節~26節

おまけ