参考資料733 | シフル・ド・ノストラダムス

シフル・ド・ノストラダムス

ノストラダムスの暗号解読

神なる救世主が生まれる場所
「この点に関しては、古代の予言者の意見が食い違っていることを認めなければならない。イエスが生まれる八百年前に、予言者ホセアは、彼の述べるところによれば霊感を受け、神の言葉を聞いて、救世主はエジプトに現れるだろうと予言した。

 エジプトから彼を呼び出し、わが子とした。
ホセア書 11章1節

 身元に関する記録は残っていないが、その発言はキリストの時代のパレスチナで広く知られていた予言者も、救世主はナザレの出身だと予言した。

 彼〔イエス〕はナザレという町に行って住んだ。「彼はナザレの人と呼ばれる」と、予言者たちを通して言われていたことを実現するためであった。
マタイによる福音書 2章23節

 さらにまたべつの予言者ミカは紀元前八世紀に、救世主はベツレヘムに現れると予言した。

 エフラタのベツレヘムよ、お前はユダの氏族の中でいと小さき者。お前の中から、わたしのためにイスラエルを治める者が出る。彼の出生は古く、永遠に昔にさかのぼる。
ミカ書 5章2節

 三人の異なる予言者が、異なる時代に、やがて到来する“神なる救世主”の出現について、三つの異なる予言をしていたのだ。
 非常な尊敬を集めていた予言者ホセアは、救世主はエジプトに現れると予言した。いまは名前がわからなくなってしまったが、明らかにイエスの時代、およびその以前には有名だった予言者の予言では、救世主はナザレの人(ナザレという町の住人)と呼ばれる。さらに、やはり非常な尊敬を集めていたべつの予言者は、救世主はベツレヘムに生まれると予言している。
 大昔の文書を守り伝えてきた人びとには、一見したところで明らかな矛盾に思えたことだろう。だが、このあとの章でおりにふれてはっきりさせていくが、古代の予言者が言った言葉、あるいは彼らの予言の“真意”には、一度も改変が加えられていない。予言者の言葉を守り伝える人びとの信念によれば、ある時点でどれだけ予言がありえないように思えても、究極的にはその予言は実現するはずだったからだ。
 だれでも知っているイエスの物語を、ここでくわしく紹介する必要はないだろう。イエスの生まれる前の人びとは知るよしもなかったことだが、わたしたちは後知恵で、古代の予言者は三人とも正しかったことを知っている。
 イエスの両親であるマリアとヨセフはナザレに住んでいた。だからイエスは《ナザレの人》と呼ばれるようになったのである。
 イエスの生誕よりわずかに早く、ローマ皇帝アウグストゥスが《全領土》の住民は税を納めるべし、という布告を発していた。マリアとヨセフはその納税の義務を果たすため旅をしている途中で、ベツレヘムに通りかかった。イエスはそのベツレヘムで生まれ、飼い葉桶に寝かせられたのだ。
 ヘロデ王は“王なる救世主”の誕生を知ると、どうやら祭司たちよりも救世主の到来に関するダニエルの予言を熟知していたらしく、《不安を抱いた》。彼は王となるべく生まれた男の子を確実に葬るために、子供を皆殺しにさせた。その結果、イエスの一家はエジプトに難を逃れた。こうして、救世主はエジプトに現れるという古代の予言者の予言も成就したのである。
 この人物はとてつもなく神秘的ではないだろうか?なにしろイエスは、生誕の五百年以上前に予言された年に生まれ、救世主が生まれると予言された家系から生まれ、生まれる場所に関する三種類の異なった予言を成就させたのだ。」
「Ⅴ・ダンスタンの終末大予言(上)」ヴィクター・ダンスタン著・幸島研次訳より

感想
>救世主が生まれると予言された家系から生まれ、

予言者イザヤはキリストが生まれる800年以上も前に、

「エッサイの株からひとつの芽が萌えいで、その根からひとつの若枝が育ち、その上に主の霊がとどまる。知恵と識別の霊。思慮と勇気の霊。主を知り、畏れ敬う霊。」
イザヤ書 11章1,2節

と予言し、イエスの家系の大本はエッサイだそうである。http://antiquesanastasia.com/religion/references/jesus/tree_of_jesse/general_info.html

以前にも書いたが、旧約聖書の予言通りにイエス・キリストが現れたのなら一大事である。未来は100億年以上前から決まっていて、スピリチュアル好きの言う守護神も守護霊も全く関係なく(そんなものいなくて)、地獄も天国もなくカルマも関係なくなってしまう。全て初めから決まっているのだから。ただし、個人的には努力をする人は報われ、全て運命だと思って努力しないような人は初めから決まっているのではないかと思っている。
 イエス・キリストが予言通りに現れたのなら、パラレルワールドの逃げ道は考え難い。(多重世界があって「終わりの時」は来ない未来もあるという考え方。)

>三人の異なる予言者が、異なる時代に、やがて到来する“神なる救世主”の出現について、三つの異なる予言をしていたのだ。

因みに、ノストラダムスは1999年という年を「終わりの時」(少なくとも特別な年とした)とし、エドガー・ケイシーは1998年にメシアの始まり(入り口)のような事があるといい、聖徳太子の予言の五島勉氏の解釈では1996年でダニエル書の私の解釈(Ⅴ・ダンスタンと同じ方法)でも1996年である。あと、弥勒下生の56億7千万年後を人口の暗号と考えると1995年だが。
聖書が「神の計画書」だとしたら全て織り込み済みで計画は進行中なのかもしれないが。

おまけ