参考資料727 | シフル・ド・ノストラダムス

シフル・ド・ノストラダムス

ノストラダムスの暗号解読

第3の予言は「神学的解釈」
「さて、そんな第1と第2の予言は1942年に公開されたものの、最後の第3の予言は同時には公開されなかった。
 ルチアによれば、第3の予言はまだ秘密にするように啓示を受けたのだという。のちに「1960年まで」という期限を設けたが、その期限を過ぎても実際に公開されることはなく、結局、公開が決まったのは2000年になってからだった。この年の5月13日にファティマで行われた盛大な式典にて告知があり、同年6月26日、ついに正式に公開されたのである。
 公開された第3の予言は、1944年1月3日に、ルチアが手紙に書いていたものだった。その中では教皇の暗殺が予言され、実際に1981年に起きた教皇ヨハネ・パウロ2世の暗殺未遂事件によって、予言は現実のものになったとされる。
 しかし、本当にそのようなことが予言されていたのだろうか。ここでは実際に第3の予言を引用してみたい(『ファティマ 第三の秘密 教皇庁発表によるファティマ「第三の秘密」に関する最終公文書』教皇庁・教理省、カトリック中央協議会)。

 わたしたちは、マリアの左側の少し高い所に、火の剣を左手に持った一人の天使を見ました。この剣は、まるで世界を火で焼きつくさんばかりに、火花を散らして光り輝いていました。しかしその炎は、マリアが天使に向かって差し伸べておられた右手から発する輝かしい光に触れると消えるのでした。天使は、右手で地を指しながら大声で叫びました。
「悔い改め、悔い改め、悔い改め」
 それからわたしたちには、はかりしれない光―――それは神です―――の中に、「何か鏡の前を人が通り過ぎるときにその鏡に映って見えるような感じで」白い衣をまとった一人の司教が見えました。「それは教皇だという感じでした」。
 そのほかに幾人もの司教と司祭、修道士と修道女が、険しい山を登っていました。その頂上には、樹皮のついたコルクの木のような粗末な丸太の大十字架が立っていました。
 教皇は、そこに到着なさる前に、半ば廃墟と化した大きな町を、苦痛と悲しみにあえぎながら震える足取りでお通りになり、通りすがりに出会う死者の魂の為に祈っておられました。
 それから教皇は山の頂上に到着し、大十字架のもとにひざまづいてひれ伏されたとき、一団の兵士達によって殺されました。彼らは教皇に向かって何発もの銃弾を発射し、矢を放ちました。同様に、他の司教、司祭、修道士、修道女、さらにさまざまな地位や立場にある多くの信徒たちが、次々に殺されていきました。十字架の両腕の下には二人の天使がいて、おのおの手にした水晶の聖水入れに殉教者たちの血を集め、神に向かって歩んでくる霊魂にそれを注ぐのでした。(トゥイにて1944年1月3日)

 一読してわかる通り、予言では教皇の他に、司教、司祭、修道士、修道女、さらに多くの信徒たちが次々に殺されることになっている。
 ひるがえって1981年に起きた教皇暗殺未遂事件はどうだったか。ヨハネ・パウロ2世と女性2人がケガを負ったものの、矢を射られるようなこともなければ、死者も出なかった。その他に書かれている内容も一致していない。よって、これを的中とみなすのはかなり苦しい。
 ところが教皇庁によれば、予言というものは出来事が起きたあとに「神学的解釈」なるものをほどこして初めて意味があるのだという。公開当時、教理省長官だったヨゼフ・ラッツィンガー枢機卿(現・教皇ベネディクト16世)(希暮注:現在の教皇はフランシスコ)は、予言の神学的解釈について次のように説明している。
「(予言で示される)ビジョンの多くの部分は、振り返ってみて初めて解読できるものである」
 もしそうならば、ファティマの予言というものは、事前には何ら具体的に事件の中身や時期を明らかにできなかったことを示している。何か事件が起きてから、あれは予言されていたのだ、と解釈しているにすぎない。
 結局、ファティマの予言による的中事例とは、事後予言と神学的解釈によって生み出されたものだったのである。」
「検証 予言はどこまで当たるのか」ASIOS・菊池聡・山津寿丸著より

感想
>よって、これを的中とみなすのはかなり苦しい。

前回も書いたがシンクロニシティーレベルだろう。http://ameblo.jp/hitorinomeaki/day-20150524.html

>ところが教皇庁によれば、予言というものは出来事が起きたあとに「神学的解釈」なるものをほどこして初めて意味があるのだという。

これは納得出来るね。聖書預言を予言として警告と解釈している人が多いが、「ペテロの第二の手紙」にあるように「主の日は盗人のように襲って来る」ので決していつ来るのかは誰にも分からないのだろう。やはり、「神の計画」で目的は選別だろう。生き残るのは世界の1/3らしい。
因みに、敬虔なキリスト教徒が生き残る訳ではない。(むしろ逆か。)それは「マタイによる福音書」第7章21節~23節より明らか。

「わたしに向かって『主よ、主よ』と言う者が、みな天国にはいるのではなく、ただ、天にいますわが父の御旨を行う者だけが、はいるのである。その日には、多くの者が、わたしにむかって『主よ、主よ、わたしたちはあなたの名によって預言したではありませんか。また、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって多くの力あるわざを行ったではありませんか』と言うであろう。そのとき、わたしは彼らにきっぱり、こう言おう、『あなたがたを全く知らない。不法を働く者ども、行ってしまえ』。」

憐れみを受けたいというような人はダメで義を行う者がいいのかなと思っている。

>「(予言で示される)ビジョンの多くの部分は、振り返ってみて初めて解読できるものである」

ノストラダムスの予言もそんな感じ。そもそも神がいたと仮定して生き残るべき「いい子」(天の父に対する子という表現をあえて使った)でもない子供になんでわざわざ予言なんて与えるんだ。自分さえ生き残ればいいと思うような奴らに。

1章91番の詩
Les Dieux feront aux humains apparence,
Ce qu'ile seront autheurs de grand conflit.
Avant ciel veu serain, espee & lance,
Que vers main gauche sera plus grand affliction. (ロバーツ本の原文)

神々は人間達に対して外観(気配)を作るだろう
彼らが大きな衝突の張本人になるだろうということ
穏やかに思い描かれる天国の前に、剣と槍
なんと左手の方でより大きな悲嘆があるだろう (10年以上前の自分の訳)

ファティマの奇跡が起きたのは、1916年と1917年。詩のナンバーは1章91番。内容も「神が人間達に姿や気配を見せたという状況に一致しています。

案外、当時の教皇が卒倒した内容というのはこの程度の内容だったのかもしれないね。

補足
http://www42.atwiki.jp/nostradamus/pages/40.html
http://www.ne.jp/asahi/mm/asakura/nostra/proph_text/Centurie_01.htm

おまけ