参考資料726 | シフル・ド・ノストラダムス

シフル・ド・ノストラダムス

ノストラダムスの暗号解読

史上最も謎にみちた人物
「ある日、地球外の存在が地球にやってきて、説得によって、あるいは力ずくで、人類を暴力と戦争の時代から抜け出させてくれるのではないか、という希望は昔から根強くある。今日では、異星で発展した高度文明からそのような存在がやってくると考える人がいるし、“空飛ぶ円盤”現象は外宇宙からの人類社会への介入のはじまりだと見なす人もいる。
 古代の予言者の多くも、地球へのそのような存在―――至高の存在―――の来訪を予言した。予言者たちによれば、ある日、大いなる“宇宙精神”が地球を訪れ、人間の姿で現れて、人びとのあいだを歩きまわるのだ。彼らはこの人物を“救世主(メシア)”と呼び、その降臨の年と生誕について、その生と死に関してこと細かに予言している。
 ナザレのイエスは、歴史を通じておびただしく出現した、われこそは救世主、地に降りたイスラエルの“神”なりと自称した連中のひとりである。ナザレの大工が、自分は“神人”であるという大それた主張をした大勢のうちのひとりにすぎないからといって、その主張を信じるに足りないと片づけてしまう意見には同意できない。たとえば、イギリス女王を自称する女が百人いるから、そのうちのひとりが本物である可能性を否定できる、という理屈は成り立たないだろう。
 ナザレのイエスの、自分は大いなる“宇宙精神”の化身であるという主張をどう思うかは人さまざまだろうが、ひとつ断言できることがある―――この、二千年近く前に十字架にはりつけになったユダヤ人予言者にはひどく謎めいたところがある。いや、それどころか、ナザレのイエスは人類史上最も謎にみちた人物だと言っても少しも言い過ぎだと思えない。
 この章では、わたしがそう考えるわけを説明するつもりなのだが、まず紀元前510年に古代の予言者ダニエルが書いた予言を読んでいただこう。

 お前の民と聖なる都に対して、七十週が定められている。それが過ぎると逆らいは終わり、罪は封じられ、不義は償われる。とこしえの正義が到来し、幻と予言は封じられ、最も聖なる者に油が注がれる。
 これを知り、目覚めよ。エルサレム復興と再建についての御言葉が出されてから、救世主の到来まで、七週あり、また、六十二週あって、危機のうちに広場と堀は再建される。
ダニエル書 9章24,25節

《エルサレム復興と再建についての御言葉が出されて》から六十九《週》後に、神なる救世主が現れることが告げられている。後述するように、この予言は救世主が現れる正確な年を予告しているのだ。
 古代イスラエルの予言者たちにとって、神なる救世主の降臨は最も重要な出来事だった。救世主が生身の解放者にすぎず、すぐれた指導者、ありきたりな王でしかない、という現代の見解に同意する者は、当時はだれひとりいなかった。予言者たちは、救世主がエホバ(神の名のひとつ)その人だと確信していたのである。
 予言者イザヤは、どんな救世主が現れるかについて、紀元前700年頃に、はっきりとこう書いている。

 ひとりのみどり児がわたしたちのために生まれた。ひとりの男の子がわたしたちに与えられた。権威が彼の肩にある。その名は、「驚くべき指導者、力ある神、永遠の父、平和の君」と唱えられる。
 ダビデの王座とその王国に権威は増し、平和は絶えることがない。王国は正義と恵みの業によって、今もそしてとこしえに、立てられ支えられる。
イザヤ書 9章7節

 イスラエルでは、どんな事情があっても神の名で人を呼ぶこと、また神の属性を人に帰することは冒瀆だった。したがって、イザヤが後世に現れる救世主を《力ある神》、《永遠なる父》と呼んだからには、彼がその救世主を大いなる“宇宙精神”、つまり“神なるエホバ”と同一視していたのは間違いない。
 救世主は“肉体をまとって現れる神”であるとする予言は、いちいち挙げていたらきりがないほどたくさんあるが、彼らが“神なる救世主”の降臨をどう予測していたかをはっきり理解していただくために、無作為にいくつか予言を引用することにしよう。イザヤ書の次の部分を読めば、予言者たちの見解がよくわかるはずだ。

 わたしの証人はあなたたち、わたしが選んだわたしの僕だ、と主は言われる。あなたたちはわたしを知り、信じ、理解するであろう。わたしこそ主、わたしの前に神は造られず、わたしのあとにも存在しないことを。わたし、わたしが主である。わたしのほかに救い主はない。
イザヤ書 43章10,11節

 予言者ゼカリヤも、イスラエルの王はイスラエルの神だとはっきり述べた。

 その日には、主は唯一の主となられ、その御名は唯一の御名となる。
ゼカリヤ書 14章9節

 ダビデ王はこう言った。

 主は我らの盾、イスラエルの聖なる方は我らの王。
詩編 89編19節」
「Ⅴ・ダンスタンの終末大予言(上)」ヴィクター・ダンスタン著・幸島研次訳より

感想
>ある日、地球外の存在が地球にやってきて、説得によって、あるいは力ずくで、人類を暴力と戦争の時代から抜け出させてくれるのではないか、という希望は昔から根強くある。
http://ameblo.jp/hitorinomeaki/entry-11933731652.html

>彼らはこの人物を“救世主(メシア)”と呼び、その降臨の年と生誕について、その生と死に関してこと細かに予言している。

よくスピリチュアル好きな人が地震の予言が当たったなどと言っているが、万が一聖書預言のような人物が予言通りに現れたら一大事である。未来は100億年以上前の宇宙誕生の時から既に決まっていて、あなたが昨日ブログを書こうかどうか迷って結局面倒臭くなって書かなかった事も今朝寝坊して朝食を抜いた事も初めから決まっていて全ては運命通りに起こったという事になってしまうからである。

>いや、それどころか、ナザレのイエスは人類史上最も謎にみちた人物だと言っても少しも言い過ぎだと思えない。

別に私はそうは思わない。最近は異次元空間の存在も証明されているようだし将来タイムマシーンが開発される可能性は十分にあるので、未来人が人工授精でイエス・キリストを誕生させたと考えれば、未来では奇跡と呼ばれる現象も解明されているだろうから超能力関連のDNAも持っているのだろう。

>《エルサレム復興と再建についての御言葉が出されて》から六十九《週》後に、神なる救世主が現れることが告げられている。後述するように、この予言は救世主が現れる正確な年を予告しているのだ。

五島勉氏はこれを2017年5月15日と解釈している。ただし、当時(1990年代)はノストラダムスの1999年7の月を優先させて本人すら忘れ去っているだろう。五島勉氏の最後の花道にして頂きたい。ただし、私は何も起こらないと考えているが。精神変革とかは起きてもいいね。
http://ameblo.jp/hitorinomeaki/entry-11943264171.html

>わたしの証人はあなたたち、わたしが選んだわたしの僕だ、と主は言われる。あなたたちはわたしを知り、信じ、理解するであろう。

因みに、「ヨハネの黙示録」に「聖徒」と「イエスの証人」というのが出て来るが、私はそれぞれ別ものだと考えている。例えば、第17章6節に「わたしは、この女が聖徒の血とイエスの証人の血に酔いしれているのを見た」とあり、同じものだったら聖徒の血に酔いしれているとだけ書くと思うからである。ただし、他にも「イエスのあかしを持っている者たち」(第12章17節)という表現もありどっちがどっちとかの区別はあまり意味がないだろう。
(他にも第14章に選民らしきものの表現や第19章には「イエスのあかしは、すなわち預言の霊である」という言葉もある。(霊は精神と訳した方がいいかもしれない(英語,フランス語では同じ)。)

おまけ