参考資料680 | シフル・ド・ノストラダムス

シフル・ド・ノストラダムス

ノストラダムスの暗号解読

何のために書かれたものなのか
「そもそも黙示録は何のために書かれたものなのだろうか。
 その答えの前に新約聖書(以下、単に聖書と呼ぶ)には何が書かれているのかを概観しよう。聖書には大きく分けて福音書、使徒言行録(使徒行伝)、キリスト教徒への手紙、黙示録が含まれる。これらの文書はそれぞれ独立に書かれた文書であり、著者らも書いた当時は一つの書にまとめられキリスト教の聖典となるとは考えていなかった。
 福音書にはキリストの生涯についての記録が書かれている。キリストが何を語り、どんな行動をしたのかということが書かれているのが福音書である。
 使徒言行録には、初期キリスト教の活動が書かれている。使徒の言行ということで、主役はキリストではなく、その教え子たちとなっている。
 キリスト教徒たちへの手紙は、初期キリスト教で大きな影響力を持っていた使徒から、各地の教会に向けた手紙である。これらの手紙は教会での集まりの際に読まれることを意識して書かれている。
 黙示録として正典に含まれるのはヨハネの黙示録だけである(異端文書としては複数の黙示録がある)。黙示録には前述のようにおどろおどろしい内容が書かれている。黙示録と呼ばれるのは、黙示文学(一般的には暗喩を多く用い、終末思想などが現れている文書をそう呼ぶ)という形式で文章が書かれているという特徴のためで、ヨハネの黙示録を指す固有名詞というわけではない。
 では、黙示録の書かれた理由をみてみよう。黙示録がキリスト教徒への手紙の一つとして書かれたことは、専門家の間でも異論がない。その点に注目して新たにタイトルをつけるなら「小アジアの7つの教会への手紙」としてもいいだろう。実際に黙示録の中では、7つの教会一つひとつに対して、具体的に良いところ、注意しなければならないことを伝えている。
 黙示録が書かれた時代、ローマ帝国の支配下で皇帝礼拝を求められる中、キリスト教徒でいることは強いストレスを伴うことだった。教会の中には異教への理解を示す穏健なキリスト教徒(異端教師)が出始めたり、すでに我々の救済は決定している(キリストの受難と復活をもって救済が決定したとの見方もあった)として、信仰の心が弛緩している問題も起こったりしていた。キリスト教は教会外部からの圧力と、教会内部での不統制という二重の問題にぶつかっていたのだ。
 そのため黙示録の執筆者は、キリスト教徒たちに対してキリスト教を信仰するのが正しいことだと示す必要があった。「なぜローマ帝国のような悪が甘い汁を吸い、信心深く善良な私たちキリスト教徒が苦しまなければならないのか?」という疑問に対し、明るい未来を提示すると同時に、信仰を守らない者にどのような悲惨な未来が待っているのかを示す必要があったということである。つまり、キリスト教徒を脅し励ますための文書なのである。」
「検証 予言はどこまで当たるのか」ASIOS・菊池聡・山津寿丸著より

感想
>これらの文書はそれぞれ独立に書かれた文書であり、著者らも書いた当時は一つの書にまとめられキリスト教の聖典となるとは考えていなかった。

例えば、「マタイによる福音書」第5章43節~44節に、
「『隣り人を愛し、敵を憎め』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。しかし、わたしはあなたがたに言う。敵を愛し、迫害する者のために祈れ。」

とあり、また「ルカによる福音書」第10章27節に、
「彼は答えて言った、「『心をつくし、精神をつくし、力をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ』。また、『自分を愛するように、あなたの隣り人を愛せよ』とあります」。」

とあり、時代も土地も違う(?)人が同じような事を書いている所を見ると、この人の創作ではなく、キリストが隣人愛を大切に思っていたのだなと思う。

因みに、旧約聖書「ダニエル書」最終章に「永遠の生命」について書かれているが、
「その時あなたの民を守っている大いなる君ミカエルが立ちあがります。また国が始まってから、その時にいたるまで、かつてなかったほどの悩みの時があるでしょう。しかし、その時あなたの民は救われます。すなわちあの書に名をしるされた者は皆救われます。また地のちりの中に眠っている者のうち、多くの者は目をさますでしょう。そのうち永遠の生命にいたる者もあり、また恥と、限りなき恥辱をうける者もあるでしょう。賢い者は、大空の輝きのように輝き、また多くの人を義に導く者は、星のようになって永遠にいたるでしょう。」
「ダニエル書」第12章1~3節

「ルカによる福音書」第10章25節~28節にも「永遠の生命」について触れられている。
「するとそこへ、ある律法学者が現れ、イエスを試みようとして言った、「先生、何をしたら永遠の生命が受けられましょうか」。彼に言われた、「律法にはなんと書いてあるか。あなたはどう読むか」。彼は答えて言った、「『心をつくし、精神をつくし、力をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ』。また、『自分を愛するように、あなたの隣り人を愛せよ』とあります」。彼に言われた、「あなたの答は正しい。そのとおり行いなさい。そうすれば、いのちが得られる」。」

ところで、マルティン・ルターはこの「義」を「人の義」ではなく「神の義」としているが、「隣人愛」と共通しているので、普通に「人の義」でいいだろう。ただし、その普通が出来ないのが人間で、そのために信仰が必要になり「神の義」(信仰義認)と考えてもいいだろう。

補足
「イエスは答えて言われた、「あなたがたは聖書も神の力も知らないから、思い違いをしている。復活の時には、彼らはめとったり、とついだりすることはない。彼らは天にいる御使のようなものである。」(「マタイによる福音書」第22章29節~30節)

「イエスは彼らに言われた、「この世の子らは、めとったり、とついだりするが、かの世にはいって死人からの復活にあずかるにふさわしい者たちは、めとったり、とついだりすることはない。彼らは天使にも等しいものであり、また復活にあずかるゆえに、神の子でもあるので、もう死ぬことはあり得ないからである。」(「ルカによる福音書」第20章34節~36節)
http://ameblo.jp/hitorinomeaki/entry-11965232637.html

おまけ