それは“神の予言”という共同幻想か?
「こうしたユダヤ予言体系の全部が、幻覚といえば幻覚のように見えます。またエゼキエルたちが見たものや聞いたことを、すべて“幻覚だ”と笑い飛ばすのがいちばんやさしい。
その場合には、これら古代のユダヤ予言者たちの、いわば共同幻想の上に、ユダヤ教が生まれ、旧約聖書が書かれ、さらにその上に、キリスト教が乗っかったことになります」
箱崎教授は、こう解説してくれた。そして、キリスト教がその後、欧米文明の土台になったのなら、いまの欧米文明の根っこにも同じ幻覚が―――「降りて来た輝く怪物体」や「人の形のようなもの」による終末予言が、へばりついていることになりますね、とも。
これはこれで、息もつまる恐ろしい考え方である。この説では、古代のマボロシがいまの欧米の歩みを操っている。少なくともユダヤ民族や、熱心なクリスチャンが多い欧米の支配層は、「終わりの日が来る」、「その日、イスラエルが世界中から攻められる」、「そして人類が裁かれる」の予言を、潜在意識として持っていることになる。
そうなら、それは「その日が避けられない」「逆らってもムダ」という思い込みにつながっていくだろう。何しろ彼らの信ずる“主”や“主の使い”がそう告げたのだから。
「ならばその日、自分だけは救いたまえ」の密かな祈りにも、それはつながる。同時に、避けられない終末大戦に備えるため、せめて自民族だけは生き残るため、より強力な超兵器を揃えたい、という欲求にも結びつく。核ミサイルが探知されるなら、海底や宇宙からの見えない毒ガスや光線を、というふうに。
「最初のボタンのかけ違い」という言い方があるが、これはボタンではない。人類の根本の意識だ。それが最初、わけのわからない天上からの訪問者の言葉をドンとたたきこまれたため、いまになって狂いっぱなしになってしまったようなものだ。
しかし、それがユダヤ予言者たちの狂った共同幻想だったにしては、彼らの見たものはあまりに鮮明でありすぎる。エゼキエルの出会った“生きもの”などは、米ソが宇宙探査で使う着陸船にそっくり。また、イスラエルが対アラブ戦に備えて開発中だという、奇襲用のジェット・ヘリやロケット・ヘリの情報ともよく似ている。
で、ここから、それはマボロシではなかった、現実に起こったことだった、という説が出てくる。エゼキエルやダニエルが見た「人間の形のようなもの」も、のようなではなく、本当に人類だった、ただしそれは古代の人類ではなかったのだ、という説が。」
「ユダヤ深層予言」五島勉著より
感想
>箱崎教授は、こう解説してくれた。
五島勉氏によると、多摩美術大学教授(精神医学)で影の聖書学とユダヤ神秘学の権威だそうである。
補足:http://www.kinokuniya.co.jp/f/dsg-01-9784382056954
>少なくともユダヤ民族や、熱心なクリスチャンが多い欧米の支配層は、「終わりの日が来る」、「その日、イスラエルが世界中から攻められる」、「そして人類が裁かれる」の予言を、潜在意識として持っていることになる。
私には欧米人の友人がいないので良く分からないが、熱心なクリスチャン以外は「終わりの日」なんて考えた事がないのではないだろうか。私は幼稚園はキリスト教系だったがイエス・キリストとアーメンぐらいは良く覚えているが「終わりの日」みたいな悲惨な話は当然の事(幼稚園だからね)ながら聞いた事がない。
因みに、昔の知り合いに学生時代にイギリスかどこかにホームステイしてキリスト教にはまったという人がいたが、イエスの再臨とかキリスト教原理主義者(ファンダメンタリスト)についてどう思いますかなどと聞いたらさっぱり分からなかった。きっと日曜教会レベルなのだろう。(行った事がないので良く分からないが。)
>そうなら、それは「その日が避けられない」「逆らってもムダ」という思い込みにつながっていくだろう。
ファンダメンタリストならば自分から強く望むだろう。(侮蔑語らしいが私が述べている事はスーパーファンダメンタリズムだね。( ´艸`))
「ある人々がおそいと思っているように、主は約束の実行をおそくしておられるのではない。ただ、ひとりも滅びることがなく、すべての者が悔改めに至ることを望み、あなたがたに対してながく忍耐しておられるのである。しかし、主の日は盗人のように襲って来る。その日には、天は大音響をたてて消え去り、天体は焼けてくずれ、地とその上に造り出されたものも、みな焼きつくされるであろう。このように、これらはみなくずれ落ちていくものであるから、神の日の到来を熱心に待ち望んでいるあなたがたは、極力、きよく信心深い行いをしていなければならない。その日には、天は燃えくずれ、天体は焼けうせてしまう。しかし、わたしたちは、神の約束に従って、義の住む新しい天と新しい地とを待ち望んでいる。」
新約聖書「ペテロの第二の手紙」第3章9節~13節
>「ならばその日、自分だけは救いたまえ」の密かな祈りにも、それはつながる。同時に、避けられない終末大戦に備えるため、せめて自民族だけは生き残るため、より強力な超兵器を揃えたい、という欲求にも結びつく。
クリスチャンをバカにしているのか。「汝の隣人を愛せよ」とかあるだろう。まぁ、建前と思っているだろうが、宗教にはまっている人は何を考えているか分からないからね。念のため、真のいい人なんてこの世には存在しないと思っている。
参考までにサイババは、
「この地上で生きる者の中で、真に自由な者など一人もいない。自由とは、他からの独立を意味する。他に依存し、無明の状態にあって自分は自由だと主張しても、意味がない。欲求と欲望のとりこでいて自分は自由だと主張しても、意味はない。完全な自由は、この地上にあってはだれにも与えられていない。おまえはまず、“自由”の意味を理解しなければならない。自由とは、英知より生じ、真の人格から来るのだ。束縛が少なければ少ないほど、自由は大きい。そして、人を束縛しているのは、その欲望に過ぎない。自由とは束縛のないことであり、欲望のない状態を指す。それは純粋な英知から来る。そして、神と一体となった時、ついに本当の自由を手に入れるのだ。」
と述べている。個人的には、人の行動には欲よりもコンプレックスの方が多大な影響を与えていると思っているが。基本的には欲とコンプレックスを全て捨てれば自由になると思っているが、それに代わる活力がないとうつ病とかになってしまうので「動じない心」が必要になってくると思われる。
>で、ここから、それはマボロシではなかった、現実に起こったことだった、という説が出てくる。エゼキエルやダニエルが見た「人間の形のようなもの」も、のようなではなく、本当に人類だった、ただしそれは古代の人類ではなかったのだ、という説が。
私は聖書予言もノストラダムス予言も実現すると仮定して解読しているが、これらの事も信じている訳ではなく実際に起こった事と仮定して推論しているだけである。宇宙人(異星人)だったら「猿の惑星」みたいに支配下に置くか共存するかで陰で神になろうとするとはとても思えないし、そんな事不可能だろう。そう考えると、残りは未来人しかなくなる。パラドックスがどうのこうのという人もいると思うが、結局この世界は瞬間瞬間の想念が作っていて未来の自分と現在の自分と過去の自分が同じ時間に存在して対面しても他人のように話せる普通の関係になるのだろう(未来の自分が過去の自分を殺したとしても消えたりしない)。それで未来が変わったら、やはりパラレルワールド的な微妙に異なる多重世界が存在しているとしか考えられない。(最近は5次元空間とか証明されかかっているしね。)
おまけ