「ワン・オブ・ゼム」の不安から、「つながり」の思想へ その1
田原 最後にもう一度聞きたいんだけど、上祐さんは二十代でオウムに入り、麻原にたいへん重用された。自分の存在、自分は特別の存在であるということがそのとき自己価値を最大化するということになったわけですよね。それで今は、一億二千万人のワン・オブ・ゼムでいいんですか?
上祐 ええ、輪の思想のエッセンスは、「人は相互に依存し合って生きている」「つながって生きている」ということです。人は、自他を区別し自己を他者より偏愛する傾向があるため、自分のためにお金、地位、名誉を求めたり、自と他を比較して自分が特別な存在になりたいという欲求があって、そのため、単なる多くの中の一人ではむなしいという苦しみが出てくるのだと思います。この問題は、激しさを増す競争社会の中で、ますます強くなっているかもしれません。これに対して、自己は他者とつながり合って存在し、一体であることを意識して、過剰な比較をせず大きな広い意識を持つことが、そのむなしさを超え、心の幸福につながるという考え方・世界観ではないでしょうか。また、互いにつながり合い、支え合って生きているという考え方は、当然、他者への感謝の心につながります。この感謝の心は非常に重要だと思います。自分が多くの中の一人ということは、自分を支える存在、親や友人から毎日の食べ物になる生き物まで、無数に存在するということであります。多くの存在に支えられた、愛された、価値のある人間であると思えれば、ワン・オブ・ゼムのむなしさは和らぐでしょう。人類全体を一人の人間と考えると、この数千年の間で相当に進歩しています。先人への謙虚な感謝の心を持てば、今後もみなで努力していくことで、数千年後にはさらに良い社会になると考えることもできる。そして、この進歩を続ける尊い人類という存在の、細胞のひとつが自分であると思えれば、たとえ多くの中の一人だとしても、尊い存在だと思えるはずです。
「危険な宗教の見分け方」田原総一朗・上祐史浩著より
感想
>人は、自他を区別し自己を他者より偏愛する傾向があるため、自分のためにお金、地位、名誉を求めたり、自と他を比較して自分が特別な存在になりたいという欲求があって、そのため、単なる多くの中の一人ではむなしいという苦しみが出てくるのだと思います。
聖書的には「智恵の実」を食べた状態だね。現実的には、幼稚園児は分け合う喜びを知っているが、競争社会ですれた大人は自分が特別な存在(特別な金持ちとか)になりたいと思うのだろう。
>自己は他者とつながり合って存在し、一体であることを意識して、過剰な比較をせず大きな広い意識を持つことが、そのむなしさを超え、心の幸福につながるという考え方・世界観ではないでしょうか。また、互いにつながり合い、支え合って生きているという考え方は、当然、他者への感謝の心につながります。
上祐さんはきっといい人(欲もコンプレックスも少ない)だからいいが、実際ネットで「上祐ガールズ」がいたっていう話だけで嫉妬心を起こしたりする人もいるようだから、なかなか大変だよね。出口王仁三郎や出口ナオの予言(大本神諭)のように「世の立替え・立直し」はウシトラの金神のような凶神が選民以外をポアするしかないのかもね。そう解釈すると、何故ウシトラの金神である必要があるのか辻褄が合う。
アレフの人が喜びそうな事を書いてみました。http://www51.tok2.com/home/slicer93190/10-4367.html
>多くの存在に支えられた、愛された、価値のある人間であると思えれば、ワン・オブ・ゼムのむなしさは和らぐでしょう。
「ワン・オブ・ゼム」のむなしさなんて地獄を見た事のない幸せ(普通)な人のたわごとですな。戦争の地獄、イジメの地獄、病の地獄、・・・・色々あるよね。(念のため、上祐氏は地獄を見て来た人だろう。)
おまけ
http://ameblo.jp/hitorinomeaki/entry-11706448208.html