「参考資料41」の補足 | シフル・ド・ノストラダムス

シフル・ド・ノストラダムス

ノストラダムスの暗号解読

参考資料41
「1550年、ディーは弱冠23歳だったが、ヨーロッパで既に尊敬を集め、名声は日増しに高まるばかりだった。ヨーロッパ中に鳴り響いた名声はロシアにまでおよび、皇帝からは多額の年金を取らせるから宮廷付きの学者になるように、との招請があった。ロシア皇帝からは「ディーの無双の博識と偉才はかねてから聞きおよんでいる」とのお言葉を賜ったという。これなどは、ディーが生前に外国の王侯、皇帝(カール五世も含む)から受けた、もしくは辞退した多くの招聘の内の一つに過ぎない。イギリスの学者、技術者の間では、ディーは主に数学者として知られていた。しかし、当時数学は依然として黒魔術の一つという疑いを受けており、普通の人間にとっては、ひどく危険な学問だったのである。数学は現在われわれが知っているような意味での科学にかろうじて一歩踏み出したに過ぎなかったのだ。プラス、マイナス、イコールといったありきたりの記号ですら使われて間もなかった頃のことである。しかし、ディーの多くの同時代人たちは、彼が数学の研究に果たした堅実で重要な功績を十分に評価していた。たとえば、リチャード・フォースターはディーの尽力があって初めて、イギリスで数学的学問が再生したといい、「彼がアトラスのごとき無双の怪力で支えなければ、コペルニクスとラインホルトの唱えた宇宙の重みで、あらゆる『数学的学問』は瓦解するだろう」とまで述べている。独学の機械技術者エドワード・ワーソプは、ディーが「ヨーロッパ中の博学な数学者から当代随一の数学の覇王とみなされた。それは、ちょうどキケロによってクラティッポスが当時の哲学者の王と呼ばれたようなものだった」と書き残している。これら二つの証言は、ディーの博学ぶりを示す数多くの同国人の証言のほんの一部である。」
「ジョン・ディー エリザベス朝の魔術師」ピーター・J・フレンチ著より

感想
ウィキペディアに、
「近代ヨーロッパ数学(西暦1400~1600年頃)
ルネサンス初期のヨーロッパでは、数学はまだローマ数字を使用した扱いにくい記法に制限され、記号を使用せずに単語で関係を説明していた:プラス記号、等号、未知数を示す は使われなかった。
16世紀末までに、特にレギオモンタヌス(1436年-1476年)とフランソワ・ビエト(1540年-1603年)の貢献により、数学は現在使用される記法と相違の少ないインド・アラビア数字を使用して記述されるようになった。
16世紀のヨーロッパの数学者は、今日知られているように、他の世界に先例の無い進歩を始めた。その最初は三次関数の一般解法であり、一般に1510年頃のシピオーネ・デル・フェッロの功績とされているが、最初の出版はニュルンベルクのヨハネス・ペトレイアスによるジェロラモ・カルダーノの『偉大なる術』であり、これにはカルダーノの弟子ルドヴィコ・フェラーリによる四次方程式の一般解法も含まれていた。
この時点から、数学の発展は迅速となり、同時代の自然科学における進歩に貢献した。この進歩は印刷の発展に大いに支援された。最初に出版された数学の本は1472年のゲオルク・プールバッハの『惑星の新理論』であり、商業算術の本である1478年の『トレヴィーゾ算術書』が続き、最初の数学書であるエウクレイデスのユークリッド原論は1482年にラトドルトにより出版された。
航行の要求と広範囲に及ぶ正確な地図の必要性の増加を動機とし、三角法が数学の主要な部門となった。ピティスクス (Bartholomaeus Pitiscus) がこの語を、1595年に出版した『三角法』(Trigonometria)で最初に使用した。レギオモンタヌスの正弦および余弦の表は1533年に出版された。」

とあるので、少なくとも黒魔術と同一視はされていなかったと思うが、当時の一般人の教養レベルは分からないので何とも言えない。

おまけ 当時、武蔵丸と予想してたまたま来ていた叔母さんに負けた記憶があるが、試合テクニックがあれば武蔵丸の方が強そうだね。