「参考資料22」の続き | シフル・ド・ノストラダムス

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ノストラダムスの暗号解読

「では、ロボフと麻原らはどんな話を進めていたのか。上祐史浩元代表が教団から分派して設立した「ひかりの輪」がまとめた「オウム真理教の活動経緯の総括」に当時の経緯が記されている。それによると、「一億円出せばエリツィン大統領と会える」とロボフ側からもちかけられた教団は、「エリツィン大統領と会えるという多大なイメージ効果を考えて、その申し出を受け、麻原以下大勢の信者がロシアを訪問するツアーを企画し実行しました」とある。ロボフからの「商談」に飛びついた麻原らは、早くも翌月には、「ロシア救済ツアー」と称して三百人の信者を引き連れモスクワに向かう。エリツィンとの会見こそ実現しなかったものの、ロボフの紹介でルツコイ副大統領やハズブラートフ最高会議議長ら政府首脳と会うのに成功した。さらに、ロシア日本大学の建物の一部をモスクワ支部として提供してもらう便宜を受けた教団は、テレビやラジオの放送枠も獲得。政府高官の威光を背景にロシア国内で急速に認知度を高めるようになる。体制崩壊によって失われた精神的な拠り所を求めていたロシア人が続々と押しかけ、信者の数は瞬く間に日本国内を上回る五万人に膨れ上がった。
・・・・教団の活動が著しく逸脱したものになるのは、ロシア進出の翌年に当たる93年頃からだ。教団の「建設省大臣」こと早川紀代秀は、著書でこう述べている。「ロシアと太いパイプができると、グル麻原は、そのパイプを利用して武装化に役立てようという考えが生まれたようでした」。武装化にあたって最大限に利用されたのが、ロボフが就いていた安全保障会議書記という地位だ。安全保障会議とは大統領直属の組織で、その事務局を束ねる書記は軍などに強い影響力を行使できる。「(ロボフは)軍事分野を統括しているので、後にオウム信者がロシア軍施設に赴いて小銃等の射撃訓練を行う『射撃ツアー』など、特別な許可を与えました。さらには、幹部信者が軍の研究者と会ったり、研究所に行ったりすることにも、ロボフ人脈のバックアップがありました」(「オウム真理教の活動経緯の総括」)。訓練だけでなく、早川が中心となって自動小銃やヘリなどの武器を次々と入手。戦車の購入も検討されたという。そして行き着いたのが、サリンだった。「諜報省大臣」の井上嘉浩がのちに裁判で証言したところによると、教団はまずロボフに入手を打診。ロボフが研究機関などに手配した結果、サリンプラントに図面やサリンの生成法を得ることができたという。このとき持ち帰った技術をもとに教団の科学技術省がサリンの製造に着手。狂気のテロ事件を可能とした。」
「文藝春秋 第89巻第15号」より

おまけ(座右の銘・スピリチュアルより筋トレ)