先のブログで「彼岸花」について書きました。
その花が「曼殊沙華」と人に言われるまで同じものだと気づきませんでした。
つまり、彼岸花は小さいころから見ていますが、それは「曼殊沙華」という名だとは結びつきませんでした。
やはり、「彼岸」と同じく「曼殊沙華」は仏教用語、サンスクリット語majūṣakaの音写で「仏教で伝説上の天の花」というそうです。
 
因みに「彼岸」に関して、ウキペディアには、サンスクリットのpāram(パーラム)の意訳であり、仏教用語としては、「波羅蜜」(Pāramitā パーラミター)の意訳「至彼岸」に由来する。
Pāramitāをpāram(彼岸に)+ita(到った)、つまり、「彼岸」という場所に至ることと解釈している。
悟りに至るために越えるべき迷いや煩悩を川に例え(三途川とは無関係)、その向こう岸に涅槃があるとする。
とあります。
 

 
しかしながら、仏教の理想の境地、「涅槃」もきっと退屈なものでしょう。地獄はわざわざ行きたくはありませんが、涅槃も勘弁です。
 
ところで、
マイ・ウェイ」という楽曲について、
My Way ― いつも心のあるがままに」と題して9月22日の誕生日イベントで歌唱しました。
曲は超々最高です。森羅万象を受け入れるだけ包容力のある、いわば、具材としてあらゆるものを受け入れるスパゲティー、もんじゃ焼きのようなものです。
 
しかしながら、
詞ははっきり言って、フランスの歌手クロード・フランソワ「いつものように」の原詞、カナダのポール・アンカー英語訳詞「マイ・ウェイ」共に出来のいいものではありません。
ポール・アンカーの中島潤訳詞は、訳詞でなく、約詞、でしょうか。
一応首尾一貫しています。でも詩的でなく、抹香臭く、道学者風、教師風で鼻につきますが。
 
そこで僕としては、ほぼ50年の時を経て、基本中島訳的ですが、悩み、苦しみ、後悔、嘆き、絶望、失敗ばかりの自分の人生そのものを歌い込みました。
人生の先達として後生の人に説教しようなどとの思いはさらさらケセラセラです(既に死語!)。
この一カ月「マイ・ウェイ」にこだわって、日々作詞を練って文字通り「ワン・ウェイ」となって転動性がなく、この道から曲がることができなくなりました。
近況、心境、感興まで。
 
ひとみみのる拝
2019年10月1日