令息、ならぬ、愚息ナクナク、ムクムク、スクスク
令室、ならぬ、愚妻モクモク、バクバク、ブクブク
令士、ならぬ、愚生ワクワク、ヒクヒク、ビクビク
「巧言令色鮮し仁」『論語』(学而)
孔子曰く、「口先じょうずで、顔色を和らげて人にこびへつらう人には、
仁德がほとんどない」と。愚者は人は人でも仁少なし。
御宅の令尊令閨令兄令弟令子令嬢は如何に?
「君子和而不同、小人同而不和」『論語』(子路)
孔子曰く、「君子は人と和合してことに当たるが、雷同することはない。
小人は人に雷同してことに当たるが、人と和合することがない。
「和光同塵」『老子』(第4章)
「自分の学徳・才能を包み隠して俗世間に 交わる」と。
我、和親和睦和敬を願い、学徳・才能は和漢洋を目指すも、まずは、暫時平和に「和民」(?)辺りで、飲んだくれるか。
「令 月令日」
ひとみみのる記
20190416
ここからはお時間のある方だけお読みください。
「令和」の語に関して参考まで、
後漢の張衡(78-139年)『帰田賦』(『文選』)
「於是仲春令月,時和氣清・・・」(是に於いて仲春二月よき月、時和して気清し・・・)と見え、
僕のある友人が、万葉歌人(7世紀後半から8世紀後半にかけて編まれた
日本に現存する最古の和歌集)は王羲之(303-361年)の『蘭亭序』(353年)を
読んでいたとして〔以下〕の文を送ってくれた。
〔東晋の王羲之『蘭亭序』に「・・・是日也、天朗気清、恵風和暢・・・」
(是の日や、天朗らかに気澄み、恵風和暢す。)
「訳」(…この日、空は晴れわたり空気は澄み、恵みの風が柔らかに吹いている。)〕
(以下に【出典: フリー百科事典『Wikipedia』】(『礼記』「経解篇」の「令和」に関して、)
〔中国四書五経の一つ『礼記』(五経の一。周末から秦・漢時代の儒者の古礼に関する説を集めた書。)の「経解篇」に
「発号出令而民説、謂之和(天子が命令を発し人びとが幸せになる、即ちこれを和と言う)」との一説があり、
「月令篇」には「命相布徳和令(臣下の相に命じて徳政を敷き勅令を公布し)」というフレーズもあるとしている。
2019年5月より使用される日本の元号「令和」は、
『万葉集』に収録されている、大伴旅人(665-731年)による「梅花の歌の部」の序文〔以下〕
「天平二年(730年)正月十三日に、師(そち)の老(おきな)の宅(いへ)に萃(あつ)まりて、宴会を申(ひら)く。
時に、初春(しよしゆん)の令月(れいげつ)にして、気淑(よ)く風和(やはら)ぎ、
梅は鏡前(きやうぜん)の粉(こ)を披(ひら)き、蘭(らん)は珮後(はいご)の香(かう)を薫(かをら)す。・・・」
「訳」(天平二年正月十三日に、大宰師の大伴旅人の邸宅に集まりて、宴会を開く。
時に、初春の好き月にして、空気はよく風は爽かに
梅は鏡の前の美女が装う白粉のように開き、蘭は身を飾った香のように薫っている。)
が典拠とされている。
多くの中国メディアは、「大伴旅人は『帰田賦』に触発されて例の『万葉集』の序文を書き、
『帰田賦』は『礼記』から多大な影響を受けた流れがある」と報道している。
一方で、外交学院国際関係研究所の周永生教授や北京大学の王新生教授は、
日本の古典文化が中国の古典文化の影響を受けているとしながらも、
『帰田賦』と「令和」の語には「直接の関係はない」としている。
また、「令和」元号の考案者という報道のある中西進は、
『帰田賦』の「令月」は2月を指しているが、
「梅花の歌の部」序文の「令月」は1月であり、
また「和」の意味合いも違うことから「同じものと考えるのは理解できない」としている。〕
ある人曰く、
「令和」に関する時系列をまとめてみると。
張衡『帰田賦』(78-139年)
王羲之『蘭亭序』(353年)
昭明太子『文選』(501-531年)
大伴旅人『万葉集』(730年)
日本政府が新元号「令和」を発表(2019年)
そこでまた曰く、
「令和」の中国での始まりは、張衡『帰田賦』と王羲之『蘭亭序』が『礼記』「月令篇」を踏まえたのが始まりで、
昭明太子の『文選』によって編纂されたのが日本に伝わった。
その後日本では、その『文選』を踏まえた上で『万葉集』が作られたとされている、
という解説がどうやら妥当のようだ。
また先の友人が曰く
〔「令和」は音的には「零和」と同じで、ゼロ和(ぜろわ、英: zero-sum)とは、
複数の人が相互に影響しあう状況の中で、全員の利得の総和が常にゼロになること、またはその状況を言う。〕と教えてくれた。
その例えとして、
〔日本の富の総和は増えない、人見先生が百円儲けたら僕は百円損するーー
「令和」は、そんな時代となることが運命づけられているわけです〕と。