「そうですね…。」
大学に入って直ぐに、午前中の日課は、「石膏デッサン」となった。
木炭紙の倍版に、木炭で描くのだ。
尾道大学の石膏室、私は一人で静かに、美しい彫刻群をえがく。
聖ジョルショ。モーゼ。ミロのヴィーナス。サモトラケのニケ。ベルベデーレ。
朝の光が綺麗なのは、実技試験の日に知った。
石膏台へ設置された、真新しい『ラオコーン』。
逆光の構図。
顎や鼻先、髪へと、キラキラと、朝の柔らかな光が散りばめられていたその光景に、ただただ感動して描いたことを覚えている…。
大歳先生に言われたとき、試験の時のラオコーンを美しく縁取った朝の光を、思い出していたのだ。
誰よりも早く、息を弾ませて、朝の光の石膏像に会いに行く。
「勉強させていただきます。」
と、一礼をしてから描く。
誰もいないから、本当に、贅沢だと想っていた。
それに、いつも決まって、大歳先生が見に来られた。
先生は、どの教授よりも早く大学へ赴き、学生の制作アトリエを見て回る。
「わたしも、ちょうど君と同じ所から、描いたんだ。ここが、難しいよな。」
「先生も、描かれたんですね…。」
「頑張りなさい。」
「はい!」
私が尾道大学へ来たのは、大歳先生が教鞭を振るわれると知ったからだ。
その「えにし」がなければ、私はここにいない。
東京芸大、多摩美術大学を狙い、3浪目は、もう、ある覚悟を決めていた。
広島市立大学一本、大歳先生一筋だったが、残念なことに、創立時からの任務を終え、退官されることを知ったため、進路を関東へ変更したのだ。
大歳先生という指標が消えた今、目指すなら、最高峰だと考えたから。
そして、この一年で終わろう。
ダメなら、またその時に考えればいい。
「篠原はダメだったら、篠原瞳絵画教室やればいいよ☆」
と、明るく、予備校の先生に言われて、結構うれしかったな。
当時、広島市立大学を一筋に、
「大歳克衞先生に、デッサンを教わりたい。」
その想いだけで、突き進んでいた。
逃げたり、病んだりしながら、一途に想い、描いた。
尾道大学に入学して、そして、大歳先生の研究室を初めて訪ねた時のことを、今でも鮮明に覚えている。
「私は、先生に教えて頂きたくて、ここに来たんです。とても嬉しいです……。」
「そんなことを言って貰えて、本当に、わたしも嬉しいです。」
緊張しながら、やっと出会えた恩師に、気持ちを伝えたら、涙が溢れて、流れた。
大歳先生も、顔を真っ赤にして、涙を流しておられました。
かたく、熱い、握手をしました。
大きな大きな手で、大歳先生は私の手を包んで、泣いていました。
「ありがとう…」
と。
石膏室でデッサンを終える頃、大歳先生は決まって声をかけて下さいました。
「昼を一緒にどうかね。」
「ご一緒させて頂きます。」
サモトラケのニケだけは、納得のいく出来が得られず、一年後にリベンジした。
以下、2枚同じ石膏像があるが、2枚目が、リベンジ後。
ベルベデーレ
![](https://stat.ameba.jp/user_images/20131011/01/hitomikun7/d8/0e/j/o0480069512712116175.jpg?caw=800)
サモトラケのニケ
![](https://stat.ameba.jp/user_images/20131011/01/hitomikun7/8d/8d/j/o0480054012712116196.jpg?caw=800)
聖ジョルショ
![](https://stat.ameba.jp/user_images/20131011/01/hitomikun7/47/19/j/o0478072012712116211.jpg?caw=800)
サモトラケのニケ
![](https://stat.ameba.jp/user_images/20131011/01/hitomikun7/2b/bb/j/o0480071212712116242.jpg?caw=800)
えにしの不思議。
尾道大学の四年間の指導が、大歳先生の教育者としての、最後の仕事でした。
退官されるとき、私の制作アトリエを訪ねて下さって、
「一生会えないわけじゃない。広島県に居るんだ。またいつでも、会いに来なさい。」
涙を浮かべて、私にお別れを言って下さいました。
奥様にも、本当に優しくして頂いて、お二人は、理想の夫婦だ…といつも想っていた。
2001年に、第一期生として入学しなければ、大歳先生との深い深い交流は、絶対に無かった。
諦めなければ、くじけなければ、覚悟を決めれば、叶う。叶うのだなあ…と、涙を浮かべる、今の私。
大歳先生に鍛えられ、磨き、認められたデッサンの力。
私の宝物です。
自ら命を絶つことは、絶対にしない。
この力は、必要。
ずっと守り抜く。
えにしは、情熱という灯火を目指して訪れる。