デッサン | 不思議系画家Hitomiの日記帳♪

不思議系画家Hitomiの日記帳♪

画家として作品販売や、Tシャツデザイン、漫画製作などもしているわたくしの日々のアレコレを気ままにつづります☆
最近は、ガーデニングや自然農の畑、雑穀栽培などを始めて、野良仕事が忙しくなっています☻

「朝の光が、一番綺麗なんだ。」


「そうですね…。」


大学に入って直ぐに、午前中の日課は、「石膏デッサン」となった。


木炭紙の倍版に、木炭で描くのだ。


尾道大学の石膏室、私は一人で静かに、美しい彫刻群をえがく。


聖ジョルショ。モーゼ。ミロのヴィーナス。サモトラケのニケ。ベルベデーレ。


朝の光が綺麗なのは、実技試験の日に知った。


石膏台へ設置された、真新しい『ラオコーン』。
逆光の構図。
顎や鼻先、髪へと、キラキラと、朝の柔らかな光が散りばめられていたその光景に、ただただ感動して描いたことを覚えている…。


大歳先生に言われたとき、試験の時のラオコーンを美しく縁取った朝の光を、思い出していたのだ。



誰よりも早く、息を弾ませて、朝の光の石膏像に会いに行く。


「勉強させていただきます。」


と、一礼をしてから描く。


誰もいないから、本当に、贅沢だと想っていた。


それに、いつも決まって、大歳先生が見に来られた。


先生は、どの教授よりも早く大学へ赴き、学生の制作アトリエを見て回る。


「わたしも、ちょうど君と同じ所から、描いたんだ。ここが、難しいよな。」


「先生も、描かれたんですね…。」


「頑張りなさい。」


「はい!」


私が尾道大学へ来たのは、大歳先生が教鞭を振るわれると知ったからだ。


その「えにし」がなければ、私はここにいない。



東京芸大、多摩美術大学を狙い、3浪目は、もう、ある覚悟を決めていた。

広島市立大学一本、大歳先生一筋だったが、残念なことに、創立時からの任務を終え、退官されることを知ったため、進路を関東へ変更したのだ。

大歳先生という指標が消えた今、目指すなら、最高峰だと考えたから。

そして、この一年で終わろう。

ダメなら、またその時に考えればいい。

「篠原はダメだったら、篠原瞳絵画教室やればいいよ☆」

と、明るく、予備校の先生に言われて、結構うれしかったな。


当時、広島市立大学を一筋に、

「大歳克衞先生に、デッサンを教わりたい。」

その想いだけで、突き進んでいた。

逃げたり、病んだりしながら、一途に想い、描いた。




尾道大学に入学して、そして、大歳先生の研究室を初めて訪ねた時のことを、今でも鮮明に覚えている。


「私は、先生に教えて頂きたくて、ここに来たんです。とても嬉しいです……。」


「そんなことを言って貰えて、本当に、わたしも嬉しいです。」


緊張しながら、やっと出会えた恩師に、気持ちを伝えたら、涙が溢れて、流れた。


大歳先生も、顔を真っ赤にして、涙を流しておられました。

かたく、熱い、握手をしました。

大きな大きな手で、大歳先生は私の手を包んで、泣いていました。

「ありがとう…」

と。



石膏室でデッサンを終える頃、大歳先生は決まって声をかけて下さいました。


「昼を一緒にどうかね。」

「ご一緒させて頂きます。」


サモトラケのニケだけは、納得のいく出来が得られず、一年後にリベンジした。

以下、2枚同じ石膏像があるが、2枚目が、リベンジ後。


ベルベデーレ


サモトラケのニケ


聖ジョルショ


サモトラケのニケ




えにしの不思議。

尾道大学の四年間の指導が、大歳先生の教育者としての、最後の仕事でした。
退官されるとき、私の制作アトリエを訪ねて下さって、

「一生会えないわけじゃない。広島県に居るんだ。またいつでも、会いに来なさい。」

涙を浮かべて、私にお別れを言って下さいました。

奥様にも、本当に優しくして頂いて、お二人は、理想の夫婦だ…といつも想っていた。

2001年に、第一期生として入学しなければ、大歳先生との深い深い交流は、絶対に無かった。


諦めなければ、くじけなければ、覚悟を決めれば、叶う。叶うのだなあ…と、涙を浮かべる、今の私。


大歳先生に鍛えられ、磨き、認められたデッサンの力。

私の宝物です。

自ら命を絶つことは、絶対にしない。

この力は、必要。

ずっと守り抜く。


えにしは、情熱という灯火を目指して訪れる。