鳥羽天皇

1103年~1156年


■正妻・藤原璋子

1101年~1145(45)

藤原璋子の父は藤原公実。

藤原公実の妹は、鳥羽天皇の母。

鳥羽天皇と藤原璋子は従兄弟。


1107年、鳥羽天皇は4歳で即位すると、公実は摂政の藤原忠実を侮り、「天皇の叔父である私こそ摂政にふさわしい」と主張。

源俊明から「五代もの間、並の公卿として仕えた者が、今摂政を望むとはチャンチャラオカシイ」と一蹴された。


摂政の忠実は、天皇側近近くに仕える公卿が行うべき作法を、天皇の叔父である公実が知らなかったことを批判。


二人は仲が悪かった。


鳥羽天皇即位から数ヶ月後、

公実は死去した。

7歳で実父を失った璋子の姿を見て不憫に思った白河上皇は、璋子を引き取り、愛人の祇園女御と二人で養育した。


璋子16歳。

白河上皇は、璋子を藤原忠実の嫡男・忠通と結婚させようとしたが、

なんと忠実は「璋子は性的に奔放だと耳にした」と固辞する。

白河上皇はムカついて、

鳥羽天皇と結婚させた。

それから璋子は五男二女を産み、

仲睦まじい夫婦生活を送っていた。

1129年、璋子の養父白河上皇が崩御し、その4年後、、璋子の人生は暗転する、、、


■藤原得子■美福門院

1075年~1133年

得子の父、藤原長実は白河上皇の側近だった。

鳥羽天皇と白河上皇の関係は悪かった。


得子の父は白河上皇が亡くなってから、鳥羽上皇により、白河上皇側近排除の影響を受けて不遇な時期を過ごす。

父は白川上皇に忠誠を誓っていたのに、そんな父への手のひら返しの仕打ちに得子は、皇室世界を怨んだ


1133年、父が亡くなった。

父の喪が明けた1134年春、

得子は鳥羽上皇の寵愛を受けられるように仕組んだ。その目的は鳥羽上皇の財産を、父への慰謝料として、搾り取れるだけ搾り取ることにあった。