藤原忠実次男
藤原忠通
1097年~1164年
67年間の平均寿命
弟の藤原頼長は、近衛天皇を呪詛した嫌疑をかけられ失脚していたが、
後白河天皇が即位した直後、
「崇徳上皇と藤原頼長が共に謀反を起こそうとしている」と、謀反の罪をかけられ、追いつめられる。
頼長は兵を挙げ局面を打開するしか選択肢がなくなり、崇徳上皇と保元の乱を起こすが敗北。
頼長戦死。
崇徳上皇流罪。
これは冤罪事件だった。
藤原頼長は近衛天皇を呪詛しておらず、崇徳上皇と謀反を企てもしていなかった。
これは3人の利害の一致による陰謀。
3人とは、、、
★崇徳上皇から権力を奪われたくない、鳥羽上皇愛人藤原得子(美福門院)
★政治の中枢を狙う信西、
★頼長と対立する忠通
忠通は後白河天皇の関白に就くが、
政治の実権は信西に握られた。
忠通は信西に利用されていたのだ。
信西は摂関家を弱体化させ、
政治権力を握りたかったのだから。
頼長を冤罪に陥れた結果
弟、頼長が父から継いでいた膨大な所領は没収された。
摂関家としての所領は何とか没収を免れた。
今まで自由に選任していた藤原家の人事については、天皇に決定権が握られ、藤原摂関家の自立性は奪われ、
弱体化してしまった。。
後白河天皇から二条天皇への譲位は、関白忠通は関与できず、信西と美福門院の密談で決定する始末だった。
1158年、忠通は、後白河上皇の寵臣、藤原信頼との対立を起こしたことから謹慎となり、関白を嫡男基実に譲った。。
しかし平治の乱にて、
信西、藤原信頼が戦死。
信西配下、信頼配下が処罰され、
朝廷から政務担当者がいなくなり、
忠通は「大殿」という肩書きで一時的に復権し、後白河上皇、二条天皇、関白、大殿らの協議体制で政治決定をこなしてきた。
1163年、寵愛する女房の五条が、五条の兄弟の源経光と密通しているところを見た精神的ショックで、間もなく亡くなった。