(昨日貰った小さな頃の私の写真の1枚)
いつも心からありがとうございます
このお話は輝空のことではなく、私が産まれる時のお話です。
ただもしかしたら、輝空も私が産まれる時に私のを助けてくれたのかも知れないと強く思っています。
実は初めて母が、私を産む時のお話を詳しく写真を見せながらしてくれました。
詳しく聞いたのは本当に初めての事です。
なぜ昨日写真を見せながらしてくれたのかは、わからなかったけれど改めて、あぁ…きらも、助けてくれたんだな。と感じたのです。
今まで、母からはわたしを「無痛分娩」で産んだと言うことを知りませんでした。
何より日本では「無痛分娩」は30年ほどの歴史しかありません。
私が産まれたのは勿論30年よりもっと前の話。
実は某有名な病院の産科で医院長と、某有名な都立病院の産科で医院長を勤められていた方が初めて独立し産科医院を作られたのでした。
その病院を母は紹介され、選びそこで出産をしたのですが。
その方が多分日本では初めてに近い試みで「無痛分娩」を母に勧めました。
母は了承します。出産予定日に足からの点滴を始めました。
なかなか降りてくる兆しは無く、日が変わり本格的に腕からの麻酔に入ります。
麻酔がどんどん入っていく中で分娩台に寝ていた母の子宮が破裂しました。
物凄い音がバンっとなり、激痛が走った途端に物凄い勢いで破水し全ての水が一気に流れ出し切ってしまったそうです。
母の意識はバンっと破裂した衝撃と、激痛までで全く意識はなくなり生死をさまよいます。
お腹に取り残された私は3400グラム。簡単には出てこれません。
帝王切開も出来ない状況になりました。
母は血液も止まらず、お腹の胎盤は破裂したまま意識は全くありません。
少しでも母体を動かしたら死んでしまう。
けれど私の命も危機が迫っていました。
私は鉗子分娩という、機械を使って取り出されることになりましたが私も母命は保障されていませんでした。
母は出血が収まらない上に、鉗子分娩になり体内は傷だらけです。
命が危ない。
どれだけの時間が経ったかわかりません。
何も聞かされず、外で待っていたおばぁちゃんも胸騒ぎがしました。
その時です。母の目の前に
カチっ カチっ カチっ と音がしてワイパーのような右から左へ、何かが過ぎるその中に、帽子を被った魔女🧙♀️の姿がハッキリ見えて。
帽子を被った魔女が
3人目で目が覚めたようです…
母はきっとその時、命を助けてもらったのだと思う。
とそう言いました。
医師は 「昔だったら亡くなっていた。」と話したそうですが
母曰く、当時無痛分娩などやっているところは皆無だったし、私は違う方々に助けられたのよ。と。
「医療ミス」だったのです。
点滴を急速に入れすぎたのだと母は言います。
その後長く入院した後、大学病院を紹介されてそこで約2年間。
傷だらけになった内臓をドライアイスで焼いて傷を修復したり、色々な治療をしていただきに通いました。
なぜその時動かなかったか。
母1人で私と、おばぁちゃんの生活を見ていたことや夫もいたのですが、忙しくそれどころではありませんでした。
以前私はブロ友さんより⭐︎で無痛分娩の事故を経験されたお母様を紹介しています。
そこに繋がっていたのでしょうか。
改めて、無痛分娩にはこのようなリスクもあるのだとお伝えしてという事なのか。もしくはまた別のメッセージ⭐︎なのかわかりませんが。
今は緊急帝王切開が出来るし技術は進んでいます。
決めるのは自分自身です
ただ改めて私と母は、生死を彷徨い助けられた命だと言う事を見に染みて感じました。
そこに何かがあるのかもしれないと思えば、3人の魔女は、3人の子供達だったのか。
きらが助けてくれたのかもなぁ…と本当に色々想いが張り巡らさられました。
記事にするかも迷いましたし、昨夜はなんだか訳が分からなかったのと疲れでいつのまにか寝かしつけながら寝てしまいました。
ごめんなさい。
ただ、昨日
何も知らない母が先日の「タキシードサムの思い出」に出てくるお母様の若き頃の写真も母がくれたのです。
喜んでくれたのかな?ありがとう
下の右端の方が、タキシードサムに出てくる男の子の愛するお母様です
色々話がありすぎて纏まらないのですが、
ただただ私の命もまた、沢山の方に支えられて今がある事を感じました。
急に母が私に今頃話した事や、小さな頃の写真を改めて渡されたりなんてすると…
ちょっと不安がよぎるのですが。そんな不安が過った時はなるべく今まで通り寄り添って生きていきたいなと思うのです
ありがとうございます。いつも感謝です