辰年に竜にまつわる場所を巡る⑦ 新門辰五郎墓
墓碑には新門辰ときざまれています
江戸後期に生まれ、上野浅草一帯の町火消の親分としての活躍を通して徳川慶喜らと交誼を深め、激動の幕末を駆け抜けた実在の人物です。そのカリスマ性や侠客としての漢っぷりは歌舞伎や講談の題材にもなりました。
西巣鴨駅から徒歩5分の盛雲寺(豊島区西巣鴨4-8-40)の墓所に入ったら右手に進むとすぐに視えてきます。
新門辰五郎とは
寛政12(1800 異説あり)年産まれ。火事で実父を亡くし、火事を憎むようになり、将来は火消しになると誓う。叔父のはからいで、浅草十番組の組頭町田仁右衛門に引き取られる。亡き実子辰五郎の名を与えられ家族同然に育てられる。
文政4(1821)年、火事場で子分が掲げていた纏を立花家お抱えの大名火消しに倒されてしまう。辰五郎は即座に屋根に登り大名火消しの纏持ちを蹴落としたため、両組にわだかまりが残る。
辰五郎はメンツを重んじる武士から斬り捨てられることを覚悟で単身立花家に乗り込むと、玄関先で胡座をかき事の顛末を申し述べ「斬るなり突くなり勝手にしろいっ」と啖呵を切ると連中は気迫におされ放免となり、辰五郎は大いに名をあげた。
3年後の文政7(1824)年、24歳で浅草十番組の組頭となり、いろは47組のうち浅草·上野に相当する「と組」「ち組」「り組」「ぬ組」「る組」「を組」を束ねる親分となった。この頃、輪王寺宮門跡の舜仁准后という皇族が浅草寺別当の伝法院に隠居することになり新しく通用門が造られ、この番人を仰せつかったことからいつしか「新門の親方」「新門辰五郎」と呼ばれるようになった。また、寛永寺の子院である上野大慈院の僧侶から、浅草寺掃除方を拝命。すると、境内や境内裏で商売をする香具師や商人を取り締まる事となり、彼らを世話する代わりに売上の何割かを受け取るようになり財力がつく。
新門辰五郎が描かれた浮世絵から抜粋
弘化2(1845)年、青山で大火がおき、有馬家(久留米藩)と消火の主導権争いの喧嘩で、有馬家側に18名、を組側に7名の死傷者を出し、責任を感じた辰五郎は自ら奉行所に出頭し、江戸十里外追放となるのですが、こっそり戻ってきては妾のところに通っていることが露見し、捕縛され自白のため鞭打の拷問をされるが一切白状しなかった。拷問の様子は血漯踵に滴るとあります。
佃島の人足寄場(現在の職業養成所 手に職のある辰五郎が入るのは異例)に送られると、火消しの親分として尊敬と信望を集め指導や訓練を施していたところ、弘化3(1846)年、小石川で発火した火事が北西の風に煽られ永代橋を落とし後に江戸十火災に数えられる大火に発展し深川にも類焼の危険が迫ったところ、辰五郎は逃げ惑う若手を組織し手際よく消火にあたり、遠山金四郎景元がこの活躍を評価し釈放の措置をとります。
嘉永4(1851)年、経営していた寄席で酔客を諌めたところ、逆に一橋家に引き据えられてしまうが、刀で脅されても怯むことのない辰五郎の漢っぷりに惚れ込んでしまったのが徳川慶喜。後に慶喜は辰五郎の娘お芳を側室に迎えています。
慶応4(1868)年、鳥羽・伏見の戦いで幕府軍が敗退すると、慶喜は密かに大阪城を脱出し江戸へ退却をします。このとき慶喜は権威を示す金扇の馬印を城内に忘れてきてしまいます。火消しにとって纏にも相当すると知り辰五郎は火の手の回る城内に戻り探し出して東海道をひた走り慶喜に届けた。
江戸に戻った慶喜は寛永寺で謹慎となる。気を揉む辰五郎のもとに陸軍総裁を務めていた勝海舟が訪れ「江戸城の開城交渉が決裂した場合には(戦略撤退のため町民を逃がしたあと)、江戸中に火を放ってほしい」と依頼しました。史実は無血開城が実現したので、辰五郎の葛藤と安堵がうかがえます。
明治元年5月、上野東叡山で新政府軍と彰義隊が衝突すると、謹慎中の慶喜を守るため辰五郎は手下と共に消火にあたるが、多勢には抗しきれず伽藍は焼け落ちてしまい、辰五郎は火消しからの引退をきめました。
その後、静岡に移住した慶喜から呼び寄せられるが、自分の居場所は浅草であるとの信念から、知己の清水次郎長に慶喜の警護を託し古巣へ戻ります。
清水次郎長
明治8(1875)年9月17日、徳川将軍家への義理をきっちりと果たした辰五郎は自宅の畳の上で大往生を果たしました。享年77歳。辞世の句は「思ひおく まぐろの刺身ふぐの汁 ふっくりぼぼにどぶろくの味」
新門の名は現在にも受け継がれ、株式会社新門として浅草寺の整備などを手掛けています。
十二支TOPへ→こちら