とりあえず潜在意識という言葉を使ってみる | 意識デザイン
えっと、アン・ジルチさんの『FLP フューチャー・ライフ・プログレッション・セミナー』について連載をしようと思っていたら、セミナー受講中に緊急でセッションをお受けして、前回はそのことについてちょこっと書いたんだけど、それについてもうひとつ付随して書きたいことがあって、でもそのためには前提となることについてシェアをしておく必要があり……。

ぼくの頭の中では一応筋道があるんだけど(←ほんとか?)、何かぐちゃぐちゃでゴメンm(__)m

で、まぁ、訳わかんないかもしれないけれど、挿入篇の前フリということで。



スピリチュアルな道には、大きくいってふたつあって、それについては何日か前に『往きと還り』と題して説明をした。

で、そのポイントは「それ」と呼ばれる領域にある。

その領域のことを、仏教では「空」、一部の量子物理学者は「内蔵秩序」などと呼んでいる。
もちろん「空」を唱える人であれば、それを‘領域’と表現することは否定するだろうけれど。

ここは残念ながら理屈では説明できない。
なぜなら、理屈というのは「こちら側」の事情であり、「向こう側」はそんなものとは無関係だから。

でも平たく言うなら、「それ」とのつながりを取り戻すのが往き、「それ」から具体的な何かをこちら側にもたらすのが還りと思ってよいだろう。

今回は、あえてもう少し身近に捉えることができるように、「それ」を「潜在意識」と呼んでみることにする。
多くの人がこの言葉からイメージするよりは少し広い定義になるかもしれないけれど。



たとえば自分の感情や身体は、自分の一部であるようでいて、ときとして思い通りにはならない。
その意味では、半分自分のものではない。

つまり、それは潜在意識と言ってよい。
身体は「意識」じゃないという人もいるかもしれないけれど、まぁ言葉の定義の問題だから、それはそれとしてスルーしておくれ。
「病は気から」なんて言葉もあるくらいで、身体の状態は意識の状態と密接に結びついていて、そこには明確な境界線はない。



そして、他人や自分の周囲にある事物も、自分からは離れて存在しているようでいて、どことなくつながっている。
ほとんどの人が共感とか以心伝心といった感覚をもっているし、シンクロニシティとか虫の知らせといった体験もそれほど特殊なものではない。
つまり、他人や事物は自分とは別のもののようでいて、半分は自分とつながっている。

他人や事物は、自分の意識とは区別すべきだという人もいるかもしれないけれど、これも先に書いたことと同様。
仏教の唯識だとか、西洋哲学の唯心論では、そもそも自分の心と別に誰かほかの人や物が存在している訳ではないとまで言っているくらいだし。



ちなみに、ユングはその中間くらいに集合的無意識というのを想定したりもする。



まぁ色々と書いたけれど、ここではこの辺の曖昧な領域──半分自分であって、半分自分でない──を、ぜんぶひっくるめて潜在意識という言葉で括ってみる。

もちろんそこには限りなく個人の抑圧意識に近い領域から、ふつうは個人とは別だろうと思われる領域まで拡がっているんだけど、何度も書くようにたぶん明確な境界線はない。
個人的な潜在意識の向こうに、地つづきで他人も世界も宇宙も拡がっている。

だから、そのあいだの繋がりを取り戻せば、人生におけるあらゆる葛藤から自由になるし、究極的には我即宇宙となる。

逆にそれを完全にマスターすれば、どんなことでも自分の思いどおりに現実化することも可能だ。



ということで、往きの道は自分と潜在意識のあいだにある靄やゴミや障害物を取り除くこと。
還りの道は、潜在意識にオーダーをしてそれを起動すること
それぞれがポイントとなる。

科学的な説明とは言えないかもしれないけれど、ぼくとしては体験的にこのことに確信がある。


ぼくが実践的にお伝えしているのは、ほとんどこのあたりのこと。次回は、それに関する合宿でのやりとりから思ったことをシェアしたい。【こちらをクリックしてくれるとうれしいです! → 人気blogランキング】