色々と書きたいことがあるんだけど、ここ数回書いている記事の流れで連続して先に記しておきたいことがある。
それは、誰のどの瞬間も完璧だということ。
まぁ、スピっぽい人間にとっては特に目新しい言い回しではないかもしれないけれど、ここ数週間とみにその感を強くしている。
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誰のどの瞬間も完璧──たしかに、ぼくも前からそのことは知ってはいた。
けれども昔はどことなく、何かどこかに本当に完璧なものがあって、今はそこに至るプロセスにある……、そんな風に思っているところがあった。
たとえば悟りとか、アセンションとか、自己実現とか、成功とか、人格の完成とか……。
今はまだそこには至っていないけれど、でもそこに至るプロセスにおいて完璧なんだという風に。
でもこのところ思いを深くしているのは、仮に迷いや苦しみの中でうだうだぐだぐたやってるサイテーな人間のサイテーな人生でも、そのままで宇宙は非の打ち所なく完璧でただただ賛嘆するしかなく、あえてそれに何かを加えるとしたらもはや祝福と感謝のみって感じ。
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ぼくは、ぼちぼち大人の仲間入りをするっていう15歳のときに、どうやって生きていこうかって考えて、楽しい人生が過ごせないのであれば死のうと決めた。
それから一度だけ自殺を考えたことがあったけれど、でもまぁおおむね楽しい人生を送って来て、お陰さまで今のところ死を選ぶには至っていない。
今では、「楽しいこと」だけに価値があるとまでは思ってはいないけれど、それでも長らくそのバイアスはかかっていた。
それから、30歳のときはじめに勤めた会社を辞めて、その後の人生設計をしようとやりたいことを列記してみたところ、どう考えても生きているうちに全部やることはできそうにないってことに気がついて愕然とした。
それ以来、本当にやりたいこと、大切なことだけに絞って、いかに最短の時間で効率的にそれを行うかみたいなことばかり考えて毎日を過ごしている。
んなもんだから、いまだに貧乏性で、無為に時間を過ごすのは嫌い。
そして、たとえば子どもたちだとかを見て、人が無為に過ごしている様子だったりすると歯痒かったりする。
でもそこにはともすると、どこかしらこの世には「良きこと」だとか「価値あるもの」があるという思い込みがある。
そして、学びとか成長を通して、いかに「良きこと」や「価値あるもの」を目指すか……、みたいな。
でも、それってある種の価値観なんだよね。
そしてその価値観を採用すると、必然的にこの世には「良くないこと」だとか「価値のないもの」があり、「良きこと」や「価値あるもの」にいまだ至っていない自分だとか他人がいる……ってことになっちゃう。
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そんな折、先日『<アセンション版>地球の「超」歩き方』って本を読んで、ゲリー・ボーネルさんが言っている台詞を読んで、目から鱗が落ちた。
──ただ、そこにあるだけなのです。別に解決する必要はないのです。
ちょうど、その直後に「空(くう)」をテーマにお話会をする機会があったんだけど、「空(くう)」ってまさにそういうこと。
すべての分離、区別、差別は一時的な仮のもの。
「空(くう)」において観れば、すべては完璧。
「よい」とか「悪い」とかってこともないし、解決をしたり何かをしたりする必要のある問題は何もない。
すべては「空(くう)」なのだから、「空(くう)のことが解らない」という状態もまた空(くう)。
だから、迷いや苦しみの中でうだうだぐだぐたやってるサイテーな人間のサイテーな人生でも、当然そのままで非の打ち所なく完璧ということになる。
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先のお話会では、ある方から「それって、‘どーでもいい’っていうことと、どう違うんですか?」ってご質問をいただいた。
結論から言うならば、違いはない。
あえていうなら、そこに否定の要素があるかどうかだけ。
「どうせ○○だから、どーでもいい」とか。
以前にも書いたけれど、ぼくの好きなチャネリング・メッセージに「この宇宙には‘よい’か、あるいは‘とてもよい’のどちらかしかない」というのがある。
この宇宙には完璧しかあり得ないから、どーでもいい。
でも、やっぱりそこには‘よい’と‘とてもよい’がある。
じゃあ、その違いはどこにあるか?
カバラではティファレットということを言う。
つまり、中心にどのような美があるか、ということ。
どーでもいいんだけど、どうせだったら美しく、、、って感じかな。
とゆーことで、もう少しお腹を引っ込めたい(汗)【応援をお願いします! → 人気blogランキング】