目的のためなら手段を選ばない? | 意識デザイン
昨日の記事について書き込みをいただいた。

簡単なようでいて意外と奥の深いテーマだと思うんだけど、大切なことをきちんと受け止めていただいているようでうれしく思ってる。

その中でちょっとした問題提起もいただいたので、もう少し掘り下げて書いてみたい。



まず大前提を確認しておきたいんだけど、すべては何でもあり。

意志や意図においても、行為の実際においても、絶対的な善悪はないということ。

そのときそのときの思いがあり、行為がある。
それでいい。

他人の言動や、あるいは自分の過去の言動を見てあれこれ思うこともあるかもしれないけれど、それは判断(ジャッジ)。
ある人のある立場から見ればそうかもしれないけれど、その見方自体もまた相対的なものだから、良いとか悪いとか評価をするべきことじゃあない。

いつも言うことだけれど、そのときの自分なりに純粋に一所懸命に生きること──けっきょくはそれに尽きる。

スピリチュアル・カウンセリングの仕事で、しばしば生きていく上での選択肢について迷っていらっしゃるクライアントさんのご相談を受ける。
もちろん、どちらを選択するかにあたって必要な情報や考え方を提供するのも大切なことだ。

でも、けっきょくはどちらを選んでもいい。
大切なことは、どちらを選ぶかということよりも、むしろ選んだ選択肢についてどれくらい純粋に一所懸命に生きることができるかということであり、セッションでもそのあたりのことに力点を置くようにぼくは心がけている。



さて、そのうえで、昨日のカキコでいただいた問題提起は──

ぼくが「目的のためなら手段を選ばないとは思わない」と書いたことに対して、意志や意図を尊重するのであれば、場合によっては手段が不適切なケースもありなのでは……という趣旨。

たとえば、自分の愛する人が凶悪犯の人質に取られて、いままさに殺害されそうになっているとする。
凶悪犯を射殺して、愛する人を救出すべきか否か──なんていうのも、そうしたケースかもしれない。

多分ぼくなら凶悪犯を射殺する。

でも、もしそのとき、犯人に対する憎しみだとか、愛する人を失いたくないという思い、あるいはたとえ凶悪犯といえども人を殺すことに対する躊躇(ためらい)などがそこに入り混じっていたとしたら、それは業(カルマ)になる。

理屈だけこねれば「純粋理性」にもとづいて行った行為は業(カルマ)を超越するとか、そんな議論もあるんだろうけれど、まぁ少なくとも今のぼくにはそんなことはできないので、現実的な話だけをする。

この世の中でみんなといっしょに生きていくということは、集合意識を分かち合うということだ。
以前書いていた言い回しを使うなら、社会的な価値観を共有するということ。
自分ひとりが超然として、みんなと別の基準で生きていくなんてことはできない。

だから、ふつうの人間であれば上記のシチュエーションで、犯人に対する憎しみだとか、愛する人を失いたくないという思い、あるいはたとえ凶悪犯といえでも人を殺すことに対するためらいを感じないなんてことはありえない。

だから、ぼくが凶悪犯を射殺したとしたら、それに伴う社会的な価値観のドラマから自由でいることはむずかしい。
ぶっちゃけ、業(カルマ)を積む。
それを覚悟の上で、銃鉄(ひきがね)を引くということだ。



という訳で、手段は目的とは独立してある訳ではない。
目的と同様、手段においても、そこには必ず意志、意図が反映をしている。

たとえ相手が凶悪犯であっても、それを射殺しようとすることは、多くの場合憎しみや恐怖から人を殺すという価値観を上書きすることになるだろう。

よく言われる喩え話でいうなら、戦争反対を訴えるデモに暴力の要素があったなら、真の平和を得ることはむずかしい、というのと同じだ。

「目的のためなら手段を選ばないとは思わない」と書いたのは、そのような趣旨だとご理解いただきたい。


このテーマについてはもうちょっと書きたいことがあるんだけど、しばらく忙しい日が続くので、間があいちゃったらゴメン!【応援をお願いします! → 人気blogランキング】