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2019年12月1日
VOⅬ.383
評 論 の 宝 箱
見方が変われば生き方変わる。
読者の、筆者の活性化を目指す、
書評、映画・演芸評をお届けします。
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第383号
・書 評 矢野清一 『勿体なや祖師は紙衣(かみこ)の九十年-大谷句仏』
( 山折哲雄著 中公叢書 )
・私の一言】 幸前成隆 『責任を取る』
・書 評
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◇ 『勿体なや祖師は紙衣(かみこ)の九十年 (大谷句仏)』
◇ (山折哲雄著 中公叢書)
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矢野 清一
今、この文を書いている筆者は、もともと京都生まれで、第二次世界大戦中の一時
期に親父の故郷の滋賀県に疎開した時を除いて、子供の時から大学を卒業して社会
人になるまで、二十年近く京都に住み育った。その為に、自分の故郷は京都だと思い
込んでいる。その後社会人になってからは、仕事の関係から、京都を離れ、国内外の
あちこちで過ごす事を余儀なくされたが、歳をとるにつれて生まれ故郷に帰りたくなり、
八年程前に京都に帰って来て、今日に至っている。自分自身の生まれ故郷であるだ
けに、京都の事は何でも知っていると思い込んでいたが、半世紀以上もの間、離れて
いる間にかなり事情も変わってきており、更にそれ以上に、若い頃には全く気付かな
かった故郷の色々な風物の良さを、今回帰ってきて改めて気づかされて、その良さや
有難さを満喫している。
今回、京都に帰ってきて沢山ある<有難さ>の中の一つが、市内に本社を持つ宗
教関係の専門新聞社が開催している「宗教文化講座」である。
この講座は、京都に帰ってきて間もなくの頃に、大学時代の友人に誘われて、聴きに
行った時の話が印象的で、頭に中にこびりついて、その後、殆ど毎回と言うほど拝聴
してきている。
この講座は、毎年4~五回程度、主として京都市内で開催され、主催者が宗教関係
の専門新聞社とは言うものの、全く抹香臭くない一般教養的な話が殆どで、講師も仏
教や神道、或いはその他の宗教の各派の代表者の方の時もあるが、瀬戸内寂聴さ
ん、最近逝去された梅原猛さん、山折哲雄さん、夢枕獏さんなど各界で活躍されてい
る方々の奥行きの深い人生論的な話が聴けて、有難く拝聴している。
就中、山折哲雄氏は、この講座を長年に亘って企画されている様に思われ、毎年
必ず一回は自ら一講座を担当されている。山折氏については、筆者ごときが改めて
紹介する必要はないと思われるが、宗教学・思想史の大家で、国立歴史民俗博物
館教授、京都造形芸術大学大学院長、国際日本文化研究センター長などを経て、
現在は国際日本研究センターの名誉教授をされている。
前置きが長くなったが、今回、ここに取り上げた一冊は、その山折氏が書きおろした
もので、内容は、東本願寺第二十三世法主の、大谷光演(俳号・大谷句佛)氏の宗教
界での法主としての苦難の多い活動と、大谷句佛(俳号)として自らの人生を注ぎこん
だ俳諧の世界での活動の全てについて書いた著作である。生来、不勉強にして古典
文学や詩歌の世界には弱く、知らない事ばかりだ
が、この本を読み進む内に、色々な事を教えられて、理解をするのに時間が掛かった
ものの、何とか完読できて教えられるところが多かった。
我が国の詩歌には、和歌を中心とする短歌や長歌などあるが、平安時代の昔から、
社会の上層階級では和歌の嗜みが主で、五・七・五の十七文字の俳句は、余り上層
階級には人気がなかったらしい。勿論江戸時代に入り、松尾芭蕉などの輩出で、俳
諧のステータスも上がってきてはいるが、明治当初の時期においては、未だ、和歌の
方が上位と見做されていたようである。
祖師・親鸞の血を引く、東本願寺第二十三世の大谷光演は、貴種の生まれでありな
がら、俳諧の世界に魅せられて、その一生の大半をその道で送ったとの事で、彼の終
生を通じての俳句人生がこの本に詳しく描かれている。彼の代表作の一つと言われる
のが、この本の題名になっている、この一句である。
<勿体なや、
祖師(宗祖・親鸞)は 紙衣(かみこー粗末な紙で作られた衣服)で、
九十年>
正に、色々な迫害を受けて国内を転々とした苦しい生活をおくりながらも、
浄土真宗仏教を全国に伝道した祖師・親鸞を偲んで詠んだ一句である。
更にこの本には、俳諧人生の中で彼が同時代に出会いのあった、正岡子規・清沢
満之・高浜虚子・河東碧梧桐などとの交流関係なども詳しく描かれており、彼の終生
の俳諧の旅を辿ることが出来る。その上更に、筆者などは到底考え付かないような
俳句の奥深い味わい方の勉強もさせてもらう事が出来たのは有難かった。
又、更に、巻末には大谷句佛の代表作五十句が添えられていて、興味ある読者に
は、これも参考になると思われる。
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆【私の一言】☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
『責任を取る』
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幸前 成隆
指導者には、責任がある。いざという時、責任を取らなければならない。
「指導者とは、責任を取るということである。責任を取れない者は、指導者たる資格が
ない(松下幸之助)」。
問題は、その自覚があるかどうか。
「責任を自覚し、責任を取る自覚を持つか持たないか。指導者の指導者たる所以は、
まさにそこにある(江口克彦)」。
「責任の自覚というものがない場合には、指導者は指導者でなくなる。単なる傍観者
である(同)」。
昔は、これが徹底していた。言われなくても、自らその責任を取った。ところが、最近
はその意識が薄れている。昔と違って、なかなか責任を取らない経営者が増えて来た。
当然責任を取るべき人が、つべこべ屁理屈を言って、逃げ回るのは、見苦しい。哀れ
である。責任を取らない人に、人はついて行かない。
責任を取るべき時に取らずに、退かないと、名を汚し、辱めを受けることになる。
「爵録は得やすく、名節は保ち難し(三事忠告)」。
「こころみに辱を免れざりし者を見るに、みな進むを知りて退くを知らず(同)」。
責任をすべて取るという上司には、部下は心服する。
「すべての責任を取る。自由にやってくれ」。こう言われると、ご迷惑をおかけするわけ
には行かない。心してやるようになる。
責任をどう取るか。その取り方に、その人の人間性、生き様、全人格が現れる。
《編集後記》
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最近のAIの発展には目を見張るものがあります。これに関連し、シンギュラリティ
(技術的特異点)と言う言葉がありますが、これは、人工知能が発達し、人間の知
性を超えることによって、人間の生活に大きな変化が起こるという概念を指すそう
です。
コンピューターの進化はめざましく、20年以内にはコンピューター内のニューロンの
数は人間の脳の数を超えることができ、コンピューターが意識を持つことが可能に
なるそうです。
「機械が人間の脳を超える」という段階は、少なくとも人類の想像をはるかに越える
速度で近づいているそうです。
いよいよ来年から本格的な令和の時代を迎えますが、これはどんな時代になるの
でしょうか。
今号も貴重なご寄稿有難うございました。(HO)
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第384号 予告
・【書評】 片山恒雄 『天皇の昭和』
(三浦朱門 著)
・【書評】 吉崎哲男 『俳句と暮らす』
(小川軽舟 著 中公新書)