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今すぐ話したくてウズウズしてくる歴史

歴史を読んでると、アイデアが湧いたりして生活に活力が出てきます。そういうことを書いてますんで、どんどん読んでください。

その頃、
長州は関門海峡を通過する
外国の商船を砲撃しますが、
ボロ負けします。

商船と平和そうな名前ですが、
大金を抱えて
長い航海をするわけですから、
それなりの武装をしているわけです。

そのそれなりの武装が
当時の長州藩には強烈だったのです。

商船相手に負けたばかりか、
長州は藩の砲台を
占拠されてしまったのです。


薩摩も生麦事件の
賠償問題をこじらせてしまい、
イギリスと戦争になります。

薩摩は奮戦しますが、
やはり長州同様に
戦力的に勝てない
相手であることを
思い知らされました。


当時のイギリスは
世界中に植民地を持つ
世界一の大国です。

この国の植民地侵略の方法として、
相手国の有力な勢力と結んで
内戦をけしかけてライバルを滅ぼし、
弱った同盟勢力を占領する
という方法がよく取られていました。


イギリスが選んだ有力な勢力は、
幕府に不満を持つ薩摩でした。

幕府はフランスと仲良くなっていた時期でもあり、
その対抗上もあって
イギリスは薩摩と組むようになります。

薩摩と長州は、
戦力として攘夷は
不可能であることを悟ったのです。

この時点で幕府と同じ結論になるのですが、
薩長を選んだ時代の流れは、
幕府という存在そのものを
不要としていたのです。




幕末の概要⑨八月十八日の政変から第一次長州征伐へ(薩摩と長州の敵対)
薩摩藩藩主の父である島津久光は、
幕府の公武合体論を
天皇側から手伝おうと
上京(当時の上京というのは京へ行くことを言います)を図ります。

しかし、
藩内にいた尊皇攘夷派が
これを幕府に対するクーデターと勘違いして
武装して京に向かってしまいます。

島津久光は
彼らを説得するも失敗し、
やむなく鎮圧します。

孝明天皇は
あくまで公武合体を望んでいたため、
島津久光のこの働きを歓迎します。

この件で信頼された
島津久光の働きかけで、
孝明天皇は江戸に勅使(ちょくし。天皇の使者)を送ります。

内容は
島津久光の主張する
公武合体と幕府の改革案で、
失敗続きですっかり弱っていた幕府には
言われたまま承諾することしか出来ませんでした。


しかし、
京から薩摩に引き上げる島津久光は、
行列を平気な顔して横切ったイギリス人に斬りつけます。


薩摩はバリバリの攘夷派でした。


これは生麦事件と呼ばれ、

島津久光は
責任を幕府に丸投げする
テキトーな後始末をして
そのまま引き上げてしまいました。


困らされっぱなしの幕府は、
文句を言うこともできず、
将軍自らが200年ぶりの上京を果たします。
そこで天皇に攘夷を約束させられさらに困ってしまいます。




幕末の概要⑧長州と薩摩、攘夷の現実を知る(長州と薩摩が攘夷から開国へ)
長州藩の
長井雅楽(ながい-うた)が
いいアイデアを
幕府に持ってきました。

航海遠略策(こうかいえんりゃくさく)といって、
基本は開国です。

積極的に交易をして、
稼いだお金で軍備を整えて、
外国と戦おうという方法です。

これはまず長州藩で採用され、
藩を代表して
幕府にも進言されます。

幕府は渡りに船とばかりに飛びつきます。

この話はうまく行くはずでした。

しかし、
長州藩内で、
この長井雅楽が
反対派の活動で
失脚してしまうのです。

藩の実験を握ったのは
桂小五郎などの
未来の明治の元勲となる人たちです。

彼らはバリバリの尊王の人たちだったのです。

長井雅楽の後釜に座った彼らは、
尊皇攘夷の過激派となって
幕府と険悪な関係になっていってしまいます。




⑦薩摩登場の流れ(天皇から支持された公武合体論)