第二次長州征伐の途中、
十四代将軍の徳川家茂が病死します。
この戦争終結は、
それを理由に
天皇が調停する形を
取りました。
働きかけは徳川慶喜です。
慶喜は将軍職に就くと、
薩長を始めとした
倒幕勢力と会談します。
このときの交渉は、
幕府を挑発して
一気に戦端を開いて
幕府を武力討伐する気でした。
しかし
慶喜の方が一枚上手で、
倒幕勢力の団結を
崩すのに成功します。
しかし
幕府が国内でも孤立した勢力
であることも実感します。
慶喜は
ついに明治天皇に
大政奉還を申し出ます。
まったく同じ日に、
薩長に対し
幕府の武力討伐の
密勅が下りたというタイミングでした。
幕府はここで滅亡し、
徳川家は
江戸その他を領する
ただの大名になってしまったのです。
困ったのは倒幕で動いていた薩長です。
彼らは
戦う相手が消滅してしまったので、
振り上げたこぶしの
やりどころに困ってしまいました。
ただ、
幕府の職制はそのまま残り、
当面の間は今までと
変わらない毎日が続くのです。
これは
通常の方法では打倒できない相手と考え、
江戸では西郷隆盛の命を受けた
赤報隊が市中を荒らし、
旧幕臣を挑発します。
これが成功し、
江戸にある薩摩藩邸が焼き討ちされ、
慶喜のいる大阪城の旧幕臣たちも
薩摩打倒を掲げて
京に進軍します。
しかし、
天皇は
薩摩に新政府という名の大義を与え、
旧幕軍は賊軍として
扱われたことから内部崩壊してしまいます。
鳥羽・伏見の戦い
は薩摩軍の勝利に終わります。
この戦いから生き延びた
旧幕臣らは北に逃げ延び、
最後は蝦夷地の
五稜郭に籠もって戦い滅亡しますが、
この一連の戦いを
戊辰戦争と呼びます。
時代に取り残された旧時代の人たちが
この1年あまりの期間で散っていきます。
江戸時代の将軍の中でも、
慶喜は際立って頭脳明晰な人物でした。
実は彼も幕府の限界を感じていた
人物の一人だったのです。
幕府が何か決めても、
力をつけてきた天皇に覆されたり、
まったく方向の違う命令が出されます。
こういう二重の権力で
がんじがらめになっていては、
何が起こるかわからない
新しい時代に
すばやく対応できないことを
痛切に感じていたはずです。
それは、
幕府の忠誠心にも
疑問を呈していたことからもわかります。
慶喜が受けないまま、
半年近くも十五代将軍職は
空位のままになるのです。
そして将軍宣下を受けた
その月のうちに孝明天皇が崩御します。
慶喜自身が何を考えていたのかは
はっきりした資料が
あまり残されていません。
しかし、
征夷大将軍を歴任する
徳川家を裏切り、
幕府を永続させる
将軍としての責任を回避し続けた
ようにも見えます。
ただ、
彼が将軍になる以前、
当時の薩摩藩主・島津斉彬(しまづ-なりあきら)が
十三代将軍位を推してくれた
という記録があります。
斉彬も
幕府を一新する
野心があったことから、
そういう気脈が通じ合う
間柄だったかもしれません。
ただ、
薩摩と違っていたのは、
攘夷に関心を持っていなかった点です。
むしろ、
攘夷運動をしていた者には
実家である
水戸の家臣にすら
酷薄な処断をしています。
このように、
慶喜は新しい時代を予期し、
その時代に乗れない者を
置き去りにして
自分の役割を
果たしたように見えます。
以上、
幕末は
開国・攘夷・尊王・佐幕という
四つの思想が交じり合い、
戦い合い、
最終的に
尊王開国となって
決着したのです。
【 お わ り 】
この時点で
幕府は優位な立場のはずでした。
人材もいて、
資金もあり、
フランスを始めとした
諸外国などの協力勢力もあったのです。
しかし、
幕府というシステムが
すでにこの時代を乗り切れないことを
多くの人たちが
実感していました。
それは薩摩や長州
だけではありません。
幕府の中にもたくさんいました。
それは
外国から圧迫されている
日本人の不安であり、
その不安を
幕府が払拭できない限り、
第二第三の長州が
出てこないとも限らないのです。
そんな中に登場したのが
長州の高杉晋作です。
もうバリバリの尊皇攘夷派で、
積極的に外国人も幕府も
滅ぼしたくてたまらない人です(笑)
彼は
自ら組織した奇兵隊を率い、
第一次長州征伐の後にできた
穏健な長州首脳を
なんとクーデターで乗っ取ります。
長州は
公然と尊皇攘夷勢力として
復活するのです。
土佐の坂本竜馬も
時代への不安を共有する
人物の一人でしたが、
この時代でただ一人、
尊王
佐幕
開国
攘夷
という思想の枠から
自由な人物でもありました。
彼はその自由な視点で、
幕府や薩摩・長州の区別無く
日本を見ていたのです。
ただその不安を
共有する仲間を集め、
新しい日本を作ろうとしました。
なんと犬猿の仲の
薩摩と長州を
同盟させたのです。
これを薩長同盟といいます。
本来、
薩摩の島津氏も
長州の毛利氏も
徳川家に替わって
天下を狙う大名でした。
ただその方法として、
薩摩は幕府を牛耳る道を選び、
長州は幕府を滅ぼす道を選んでいた
だけなのです。
お互いのそういうところが
よくわかっていた上に、
八月十八日の政変以来の遺恨もあります。
間違っても仲良くできる
関係ではなかったのです。
誰も想像すらできない偉業が
密かに達成されていたのです。
一方、
幕府は長州を放っておけません。
再度長州征伐を敢行します。
しかし、
薩摩をはじめ
出兵自体を拒否する藩が出現します。
また、
軍備も統率も
段違いに近代化された長州軍を前に
幕府軍は敗北します。
これは敗北よりも、
幕府の統率力が
完全に失墜したことを
誰の目にも明らかにして
しまったことで
衝撃的な事件でした。
事実上、
幕府の滅亡が
決定付けられたのです。
尊皇攘夷は
倒幕運動と名を変えて
時代を動かし始めるのです。
幕末の概要⑪傷を浅くして新時代を作ろうとした大政奉還へ
幕府は優位な立場のはずでした。
人材もいて、
資金もあり、
フランスを始めとした
諸外国などの協力勢力もあったのです。
しかし、
幕府というシステムが
すでにこの時代を乗り切れないことを
多くの人たちが
実感していました。
それは薩摩や長州
だけではありません。
幕府の中にもたくさんいました。
それは
外国から圧迫されている
日本人の不安であり、
その不安を
幕府が払拭できない限り、
第二第三の長州が
出てこないとも限らないのです。
そんな中に登場したのが
長州の高杉晋作です。
もうバリバリの尊皇攘夷派で、
積極的に外国人も幕府も
滅ぼしたくてたまらない人です(笑)
彼は
自ら組織した奇兵隊を率い、
第一次長州征伐の後にできた
穏健な長州首脳を
なんとクーデターで乗っ取ります。
長州は
公然と尊皇攘夷勢力として
復活するのです。
土佐の坂本竜馬も
時代への不安を共有する
人物の一人でしたが、
この時代でただ一人、
尊王
佐幕
開国
攘夷
という思想の枠から
自由な人物でもありました。
彼はその自由な視点で、
幕府や薩摩・長州の区別無く
日本を見ていたのです。
ただその不安を
共有する仲間を集め、
新しい日本を作ろうとしました。
なんと犬猿の仲の
薩摩と長州を
同盟させたのです。
これを薩長同盟といいます。
本来、
薩摩の島津氏も
長州の毛利氏も
徳川家に替わって
天下を狙う大名でした。
ただその方法として、
薩摩は幕府を牛耳る道を選び、
長州は幕府を滅ぼす道を選んでいた
だけなのです。
お互いのそういうところが
よくわかっていた上に、
八月十八日の政変以来の遺恨もあります。
間違っても仲良くできる
関係ではなかったのです。
誰も想像すらできない偉業が
密かに達成されていたのです。
一方、
幕府は長州を放っておけません。
再度長州征伐を敢行します。
しかし、
薩摩をはじめ
出兵自体を拒否する藩が出現します。
また、
軍備も統率も
段違いに近代化された長州軍を前に
幕府軍は敗北します。
これは敗北よりも、
幕府の統率力が
完全に失墜したことを
誰の目にも明らかにして
しまったことで
衝撃的な事件でした。
事実上、
幕府の滅亡が
決定付けられたのです。
尊皇攘夷は
倒幕運動と名を変えて
時代を動かし始めるのです。
幕末の概要⑪傷を浅くして新時代を作ろうとした大政奉還へ
尊皇攘夷という言葉は、
一種の流行になっていました。
特に血気盛んな若い武士が
憧れやすい風潮になっていました。
彼らの流行の最先端は、
京の都でした。
「天誅(てんちゅう)」
と叫んで反対派を暗殺したり、
町民を脅して金品を巻き上げるなど
ロクでもない連中が増えて
治安が悪化していたのです。
孝明天皇は、
彼らのほとんどが
長州藩に関係してることに
不安を抱いていました。
京における
長州は有力な存在で、
貴族や大商人などの
長州派人脈を
たくさん作っていたのです。
その頃、
長州が天皇を押さえて
幕府攻撃の大義名分を得て
そのまま江戸を討とうとしていることが
薩摩に察知されます。
これを知らされた
孝明天皇は側近を介して
会津と薩摩に長州追放を命じます。
これは
八月十八日の政変
といい、
天皇の権威を背景にした謀略でした。
御所を薩摩と会津の兵で固め、
その上で
長州に京から出るよう
勅命を下します。
京から長州系の勢力が一掃され、
つかの間の平和が訪れました。
尊皇攘夷派は、
当の天皇には
嫌われていたのです。
長い時間をかけた
準備が台無しになり、
長州は薩摩を強く恨みます。
しかしこれをきっかけに
尊皇攘夷派の勢力は
どんどん後退していきます。
その情勢に耐え切れなかった
長州の尊皇攘夷派の主だった面々は、
京に再び進出します。
しかしこのときには
会津藩お預かりの
新撰組の活躍もあり、
どんどんやっつけられます。
小出しにしていては
ダメだとばかりに、
長州は藩として出兵。
力づくで天皇奪取を目論見ます。
会津・薩摩連合軍との
合戦になるこの戦いは
禁門の変
と呼ばれます。
この戦いで
長州はまたも敗北し、
撤退します。
しかし戦いはこれでは終わりません。
当然、
これは幕府にも売られたケンカだったのです。
長州は幕府に背き
天皇にも背き、
大義名分の無い
逆賊として征伐されることになりました。
長州は
下関での外国商船砲撃の報復にと、
イギリス
フランス
オランダ
アメリカの
連合軍にも襲われます。
泣きっ面に蜂とはこのことです。
この袋叩きで長州は
再起不能の大打撃を受けます。
しかし、
この戦いでは、
幕府側の指導力欠如が
各所で見られ、
薩摩などの一部の勢力は
幕府の命令を聞かなくなります。
戦後処理も
薩摩の西郷隆盛が主導し、
幕府もしぶしぶ了承するというものでした。
幕末の概要⑩幕府への絶望と第二次長州征伐(尊王攘夷の復活と倒幕運動へ)へ
一種の流行になっていました。
特に血気盛んな若い武士が
憧れやすい風潮になっていました。
彼らの流行の最先端は、
京の都でした。
「天誅(てんちゅう)」
と叫んで反対派を暗殺したり、
町民を脅して金品を巻き上げるなど
ロクでもない連中が増えて
治安が悪化していたのです。
孝明天皇は、
彼らのほとんどが
長州藩に関係してることに
不安を抱いていました。
京における
長州は有力な存在で、
貴族や大商人などの
長州派人脈を
たくさん作っていたのです。
その頃、
長州が天皇を押さえて
幕府攻撃の大義名分を得て
そのまま江戸を討とうとしていることが
薩摩に察知されます。
これを知らされた
孝明天皇は側近を介して
会津と薩摩に長州追放を命じます。
これは
八月十八日の政変
といい、
天皇の権威を背景にした謀略でした。
御所を薩摩と会津の兵で固め、
その上で
長州に京から出るよう
勅命を下します。
京から長州系の勢力が一掃され、
つかの間の平和が訪れました。
尊皇攘夷派は、
当の天皇には
嫌われていたのです。
長い時間をかけた
準備が台無しになり、
長州は薩摩を強く恨みます。
しかしこれをきっかけに
尊皇攘夷派の勢力は
どんどん後退していきます。
その情勢に耐え切れなかった
長州の尊皇攘夷派の主だった面々は、
京に再び進出します。
しかしこのときには
会津藩お預かりの
新撰組の活躍もあり、
どんどんやっつけられます。
小出しにしていては
ダメだとばかりに、
長州は藩として出兵。
力づくで天皇奪取を目論見ます。
会津・薩摩連合軍との
合戦になるこの戦いは
禁門の変
と呼ばれます。
この戦いで
長州はまたも敗北し、
撤退します。
しかし戦いはこれでは終わりません。
当然、
これは幕府にも売られたケンカだったのです。
長州は幕府に背き
天皇にも背き、
大義名分の無い
逆賊として征伐されることになりました。
長州は
下関での外国商船砲撃の報復にと、
イギリス
フランス
オランダ
アメリカの
連合軍にも襲われます。
泣きっ面に蜂とはこのことです。
この袋叩きで長州は
再起不能の大打撃を受けます。
しかし、
この戦いでは、
幕府側の指導力欠如が
各所で見られ、
薩摩などの一部の勢力は
幕府の命令を聞かなくなります。
戦後処理も
薩摩の西郷隆盛が主導し、
幕府もしぶしぶ了承するというものでした。
幕末の概要⑩幕府への絶望と第二次長州征伐(尊王攘夷の復活と倒幕運動へ)へ
