百年戦争⑦ 中世史講座40 | 歴史考察とっきぃの 振り返れば未来

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こんにちは。
歴史家とっきぃです。

簒奪王朝の宿命をかかえて、イングランドの英君ヘンリー五世はノルマンディー上陸を成功させました。
フランス王位と昔の領地を手に入れて、王朝を正当化させるためです。そしてそれができるだけの野心と力を持っていたのがヘンリー五世なのでした。

ヘンリー五世 Wikipediaより

フランスは相変わらずブルゴーニュ一派とオルレアン一派(王太子派)が席次争いでコップの中の嵐をやっています。

心構えがまったく違う中、アジャンクールの戦いが行われます。1415年のことです。ポルトガルのエンリケ航海王子がセウタ攻略を始めた年です。もはや舞台は大航海時代になりつつありました。

フランス軍2万人、イングランド軍7千のまたしてもフランス軍は英軍の倍以上です。
しかし、質となると司令官の器が違いました。
英君ヘンリー五世は合戦前夜、箝口令(かんこうれい)を敷き、口を開くことを馬、人ともに禁止したそうです。
そして、弓兵には高さ2m弱の太い杭を持ち運ばせます。
馬防柵をつくるためです。
信長が長篠の戦いで採用したあの馬防柵ですね。
「日本の歴史」では天才信長の特筆すべき創造力の賜物とされている戦術です。

ヘンリー五世は、この馬防柵戦術が自分のオリジナルだなんてことは一言も言っていません。言ってもすぐにバレて、ばかにされるだけだからです。
英君を謳われたヘンリー王は、そんな子どもじみたことはしないのです。
ハンガリーとオスマントルコとの戦いであるニコポリスの戦い(1396年)でトルコ軍親衛隊が騎士による特攻を防ぐために杭を打ち込んだのをみて、採用したとのことです。

他の誰かが考えたことを、参考にさせてもらったと正直にいうのは、勇気のいることだと思います。誰だって天才とあがめられたい、その気持ちはわかります。
でも、他人の力を認める勇気は大事だととっきぃは思います。

さて、そうやって合戦に備えて爪を研ぐ英軍に対し、
フランス軍の陣内はどうだったのでしょう。
ジャン二世時代に戻ったかのような、錚々たる騎士道の華たちが酒盛りをやっていたそうです。「拙者の突撃をご覧あれ」とか、武勇自慢をやっていたのかもしれないですね。
戦術としては、中央を下馬騎士が徒歩となって特攻、左右に騎兵を配置して迂回作戦を実施、長弓隊を奇襲するとのことでした。

どこかベトナム戦争に似ています。
無駄口を叩かず、粛々と進むベトコン、本国アメリカから空輸されたコーラやステーキに満足してFMを聴くのに忙しいGIジョーたち。


そういう中、雨あがりの決戦日はやってきました。
イングランド軍は例のモード・アングレで待ち構えています。その前にはトルコ軍から学んだ馬防柵もちゃんと施しています。
フランス騎士たちは、自らの勇気を示すべく泥べっちゃの中を特攻しました。

クレシーの戦いのモロ再現です。
とっきぃ目線で感想を言えば、いやー、参った・・・。
これほどおもしろいようにバタバタやられるのが、快感に感じられてくるほどの一方的な勝負でした。
フランス軍自慢の左右の騎兵隊は、狭隘な地形だったために動けず結局、モード・アングレの餌食になりました。
地形の事前調査すら怠って、飲んだくれていたのです。

イングランド軍は死者が112人も出ました。なんか指示系統で手違いでもあったのでしょうかね。
さて、フランス軍死傷者ですが、1万人以上だったそうです。つまり過半数が亡くなったのです。また、やんごとなき貴族も多くが捕虜となり、オルレアン一派の首領であるオルレアン公も敵に捕まりました。

ここで動いたのがあのブルゴーニュ公です。ヤクザのジャン無怖公ですね。
貞操のないイザボー王妃を王太子一派(オルレアン一派)はパリから追放しますが、情夫のジャン無怖公は王妃とともにパリに入城して逆に王太子一派を追放しました。
王太子は国政を弄ぶジャン無怖公に業を煮やしたのか、鉄砲玉を遣って、なんとジャン無怖公を暗殺します。先代オルレアン公暗殺への返礼というわけです。

決定的な事件でした。
無怖公の後をついだ若頭のフィリップ善良公はイングランド王に近づきます。イングランド・ブルゴーニュ同盟の成立です。シャルル六世はフィリップ善良公が押さえていますから、王の名代で締結署名できるんです。


ブルゴーニュ公はフランドル伯も兼ねています。
フランドルは毛織物工業の中心です。そして、イングランドの羊毛を輸入していますから、無理のない話ではないんです。それに、せっかく賢王シャルル五世がつくりかけた「絶対王政」も、この頃にはもう風化して国としてのかたちはなくなりました。領地を奪い合う中世的に世界に戻ったのです。まったく、システムは人ですね。

フィリップ善良公 Wikipediaより

かくして1420年、フランス史上最悪の屈辱といわれるトロワ条約が締結されました。
ひとつ、シャルル六世の王位は保証される。
ひとつ、シャルル六世娘はヘンリー五世と結婚し、シャルル六世没後はヘンリー五世が王位を継ぐ。
ひとつ、イングランドとフランスは統合王国となる。なお、行政はそのままの状態を継続する。
ひとつ、御当今(シャルル六世)在命時は、ヘンリー五世は摂政としてフランスを統治する。
ひとつ、自称「王太子」は廃嫡とする。

ヘンリー五世とシャルル六世、ブルゴーニュ公フィリップ善良公は意気揚々とパリに凱旋します。
王太子派はロワール川以南に拠点を移して、レジスタンスを開始しました。
そうした中、トロワ条約の2年後、1422年の8月末日、ヘンリー五世はパリのヴァンセンヌの森で崩御します。赤痢による病死でした。エドワード黒太子と同じ死因です。享年34歳。
さらに2ヶ月後、フランス王シャルル六世が崩御しました。

ロワール川沿いに避難していた王太子は国王シャルル七世を宣言します。
一方、イングランドは生まれて間もない世継ぎをイングランド・フランス両王ヘンリー六世として即位させ、フランス摂政として叔父のベッドフォード公が就任しました。

こうして、戦局は変わりつつありますが、未だイングランド優位はそのままです。アジャンクールの戦いが決定的となって、フランスは心が折れていたのでした。

今回はここまでです。

キーマンはヘンリー五世その人です。あと三代目ブルゴーニュ公フィリップ善良公でしょうか。
アジャンクールの戦いとトロワ条約に絞っていますから、理解しやすいと思います。

ジャンヌ・ダルクの登場が近いです。国民的英雄でもあるこのオルレアンの乙女が次回、登場します。


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