匈奴が漢との争いに敗れて西に去り、続いて鮮卑族などの「胡族」が華北に侵入し、いわゆる「五胡十六国」時代に入ったのち、中国北方の草原地帯に覇を唱えたのは、「突厥」(トッケツ、またはトックツ)と呼ばれる騎馬遊牧民の国家であった。
この突厥帝国については、かなり詳しい漢文史料があるだけでなく、突厥族が突厥語で書いた多数の碑文が残されており、これまでその政治、経済、社会、宗教について詳しい研究がなされてきているので、ここでは、それらの研究にもとづいて概略を記してみたい。
1 突厥という語
「突厥」は、言うまでもなく漢字による表記であり、それが突厥語でいかなる音と意味を持っていたか、この点についての通説となっているのは、それが現在の「トルコ」を意味するテュルク(türk, または türuk)とする見方である。
しかし、この通説化した見方には疑問や異論がないわけではない。まずテュルクを表わす漢字としては、突厥国家の中に含まれていた突厥族の同族集団をなしていた「鉄勒」という語があり、これは古い漢音では、tiet-rok のような音であり、まさに türuk の音にぴたりと一致している。ところが、突厥の古い音は、tok-ket または tok-kut のような音であり、<テュルク>とは一致していない。そこで突厥は、別の語、例えば「9」を意味する古トルコ語の dokkuz または tokkuz ではないかとする説や、兜を意味する古トルコ語ではないかとする説が唱えられてきた。より正確に言えば、突厥の支配階級の伝説に、「アルタイ山脈の形が兜に似ているから突厥(兜)と自称した」という中国史書(周書・異域伝、隋書・北狄伝など)の記述があるという。このうち、9という数字は、「鉄勒九姓」(tokkuz oboz)などに現われている。しかし、それが突厥を意味する理由は必ずしも説得的には説明されていないようである。また兜を意味する突厥語が tokkuz のような音であったのかは不明である。
しかし、突厥の語彙はともかく、突厥語が現代のトルコ語の由来する祖語だったことは、様々な碑文から見て間違いないところとされており、突厥族の中核にいた種族が後のセルジューク朝やオスマン朝の支配階級層の祖先集団をなしていたこともまた確かであろう。ただし、ここでも、近年のDNA解析が明らかにしたように、突厥族=チュルク族は、西に移動するとともに、印欧系の諸民族と交雑し、遺伝子的にはヨーロッパ化されたことは間違いない。
2 突厥社会または国家の構成
突厥国家の中核氏族をなした阿支那氏は、はじめモンゴル西北部のアルタイ山麓に居住した遊牧民であり、鉄工業に従事し、その製品を柔然に貢納していたとされている。この阿支那氏に6世紀中頃、「土門」の称号を持った首長(名前はブミン Bumin)が現れ、勢力を拡大した。彼は、北周の太祖に絹などの通商を願い、太祖は、甘粛在住のソグド人(ペルシャ系商人)をブミンのもとに派遣した。その後、ブミンは、ズングリア(ジュンガリア)の鉄勒族を撃って、その諸族を併合した。さらに彼は、柔然から独立し、552年、そのカガン(君討ちを討ち、自らイリ・カガン(伊利可汗)と号して、突厥王国(第一王国)を建設した。カガンは、その本拠地をアルタイ山麓からオルホン河流域のウチュケン山のふもとに移した。
6世紀半ばといえば、五胡十六国時代が終わりに近づき、鮮卑系の隋帝国の成立(581年)前のことである。当時、中国北部では、北周と北斉が争っており、その援助を得ようとして、きそって突厥カガンに貢物を贈る状況であった。こうした状況も幸いして、突厥は、東の興安領から西のカスピ海に到る広大な大帝国を築くに至った。
しかし、多くの騎馬遊牧民の国家がそうであったように、匈奴国家もある弱点を有していた。それは、後に詳しく述べるように、ある理由からしばしば分裂の危機に陥ることがあったことである。実際、すでにイリ・カガンの時代から突厥は分裂傾向にあったが、583年、隋が成立した直後に突厥は東西に分裂した。そのうち東突厥は、隋の軍事・外交政策によって翻弄され、ほとんど隋の属国化したようである。
ところが、隋末唐初、中国が混乱すると、東西の突厥は、たちまち勢力を盛り返し、ふたたび強盛な大帝国を築くことに成功した。このあらたに再興された突厥国家では、統治の中央集権化が進んだという。
しかし、この再興された突厥国家(東西突厥)の強盛も長くは続かなかった。一つには、南の大唐帝国の対匈奴政策の変化(対立策)があり、また一つには突厥国家内部における諸族の反乱があったからである。後でも述べるように、こうした2つの要素は相互に関連し合っおり、ひとたびこの二つの要素が結びつくと、騎馬遊牧民諸族を結びつける紐帯がバラバラに崩壊したからである。ここでは、突厥国家の政治史を詳しく検討することができないので、簡潔に済ますことにするが、結局、東西突厥王国は、8世紀中には崩壊してしまう。
3 遊牧民の経済と社会
匈奴や突厥などの軍事史・政治史をより深く理解するには、なによりも、それらの社会の経済と生活史を理解することが必要となるように思う。
私自身がそうであったが、遊牧民というと、広大なステップ(草原)で羊や牛、馬などの家畜に草を食べさせながら、放浪する集団という漠然としたイメージを持つのがせいぜいであった。もちろん、このイメージが誤りというわけではない。しかし、農耕民というと米屋麦などの穀物を栽培する集団というイメージだけで、農耕社会を理解することができないのと同じように、草原における家畜の遊牧というだけでは、すこしく心もとない。そこで、以下では護雅夫氏などの研究によりつつ、少し詳しい状況を知ることとしたい。
ちょうど農耕民が農事カレンダーを持っているように、遊牧民にも遊牧カレンダーは存在する。そして、そこで重要な意味を持っていたのは、5月と9月/10月であり、この2つの月によって一年は2つの時期に分かれていた。
このうち、5月~10月の時期は、夏営地における遊牧の季節であり、文字通り、人々は、見渡す限り広い草原で家畜に草を食べさせながら移動する。家畜の頭数にもよるが、家畜の食べる草類の量は多く、ある範囲内に生えている草類はアッという間に食べつくされる。そこで、牧童は毎日移動しながら、家畜に草を食べさせなければならない。
とはいえ、広大なステップといえども、誰も所有者のいない無主地だったわけではなく、どこに家畜を放牧してもよいというわけではなかった。そこには「縄張り」(territory)が存在した。そして、匈奴の場合、その領域は「氏族」または「部族」(bag)の所有地であった。各家族は、自己の属する氏族や部族の領域の範囲内で、自由に家畜を遊牧することを許されていた。ほとんどの場合、その氏族の領域は、開放的な空間であり、蚊やブヨなどの害虫のいない場所であることを求めていた。
しかし、こうした開放的な空間で、家畜を養える時期は限られている。寒く厳しい風雪の舞う冬がやってくるからである。そこで、10月ともなれば、遊牧民は、祭祀を終えたのち、冬営地に移動しなければならない。
こうした冬営地は、通常、山麓、山と山と間の谷地のような場所に営まれた。そうした場所は、突厥語では、qui, öz (クイ、オェズ)などと呼ばれた地形のようであり、なによりも人が冬を過ごすために適した空間であったと思われる。また人だけでなく、家畜も厳しい風雪を避けることのできる場所であった。
かつて21世紀になってからであるが、モンゴルで、ある年にあまりに厳しい冬であったために、多数の家畜が死んでしまったというニュースが新聞に載っていたことがあった。気温が低かったというだけでなく、家畜の餌となる草類が死滅してしまったという内容だったように記憶している。
これらのことから判断しても、10月~4月を過ごすこととなる冬営地がいかに重要かがわかる。この冬営地は、家族がまとまって暮らすのに必要な薪木を提供できる土地でなけばならず、また家畜の餌を供給する場所でなければならなかった。当然のことであるが、冬営地の面積は狭く、したがってそれが供給することのできる餌の量が当該家族の保持できる家畜数を決定することになる。したがって冬営地の占有は、氏族全体によって行われたのではなく、各家族によって私的に保有されていたことは、いわずもがなである。これはまた、有力な家族がより条件のよい土地を占有することができ、逆によりよい土地を占有することのできた家族が資力ある家族となりえたことを意味するだろう。
私などは、冬に家畜に与える牧草類を確保するには、夏季における牧草の収穫、乾燥など一定の農作業に準じる作業が必要となったのではないかと考えるが、これについて書かれたものを読んだことはない。
ともかく、こうして厳しい冬を超えることのできた家族は、5月、祭祀を済ませたのち、夏営地に移動することになる。
4 突厥の社会組織 家族~氏族~部族~部族連合
ところで、護雅夫氏の『古代トルコ民族史研究1』では、突厥の国家組織およ社会組織についての考察がなされている。
以下では、氏による史料分析や考証の過程を一切省き、その結論だけを要約的に示しておくこととする。(下図。)
氏の分析では、突厥国家のもっとも基礎的な社会組織は、家族を除くと、氏族(baγ、バグ)であった。護氏は必ずしも明言していないが、バグは<父系の外婚的なリネージ>であったらしく、同じ部族(il)内の他の氏族の女性を嫁に迎える習慣であった。こうした氏族の長は、bäg(ベグ)と呼ばれ、氏族員は budun (ブドゥン)と呼ばれた。また氏族の首長をさすのに使われたベグは、部族長をさししめすのにも使われた。そして、これも護氏は明言していないが、部族(il)は内婚的な性格を持っていたらしい。とはいえ、他の部族との間の婚姻がなかったわけではない。
*護氏がもう一つ指摘している重要な事実は、奴隷(家内奴隷)の存在である。これも結論だけ述べると、それらの奴隷は、きわめて多くの家畜を保有していた氏族や部族の首長、カガンの家(oikos)にのみ存在した家内奴隷であり、その仕事は、家畜の遊牧やその他の家内雑事を行うにあったと想定されている。普通の数の家畜しか保有しない一般氏族員の家内には、そのような家内奴隷(つまり奉公人)は、通常の場合、見られなかった。このことは、家内奴隷のクルガン(埋葬墓)の副葬品などからも明らかである。
先に見たように、こうした部族は、さらにより広い政治的組織(采邑)を構成することになるが、そうした組織もまた、部族と同じく il (イル)と呼ばれ、その主張は shad (シャード)と呼ばれた。
そして、突厥国家が中核種族と異なる種族を併合し、拡大すると、それらの異族(yabγu、ヤブグ)を統合・支配するカガン(qaγan、皇帝)がその国家=帝国をしはいするようになる。その場合、その国家もまた部族や采邑と同様に il (イル)と呼ばれるようになった。
ここに見られるように、突厥の国家(帝国)なるものは、突厥種の中核的な氏族を中心に編成され突厥部族・異民族部族の連合体制にほかならない。その基礎をなす社会経済構造は、冬営地と夏営地との間を移動して遊牧生活を送る騎馬遊牧民の氏族的・部族的な結合であった。
護雅夫『古代トルコ民族史研究』より。
5 部族連合国家体制の必要性
さて、騎馬遊牧民は、なぜ連合国家体制を構築する必要性があったのだろうか?
この問いには、ステップの遊牧民に限られず、すべての現生人類に共通する問いかけが含まれており、それに回答を与えるのは簡単ではない。しかし、一般的に言えば、国家権力を握った人や集団に生まれる特殊利益の問題があり、また当該国家領域に入る人々全体に対する普遍的なルール(法)の適用の必要性という問題がある。例えば、頼朝の挙兵には、多くの関東武士の領地獲得という特殊利害がかかっていた。頼朝に与力することにより、領地、つまりレント(地代収入)を増やせるのかどうか? これを見極めるために、当初、多くの武士たちは成り行きを見守った。そして賭けに乗る武士が増えるに従い、その勢いは増していった。しかし、頼朝はひとたび権力を握るや、場合によっては自分を支えた階層の利益に反しても、その支配領域全体に対するジャスティス(法)を実施しなければならなくなることがある。
騎馬遊牧民の場合も同様であり、当初、17人にすぎなかった人員が求めたものは特殊利益だっただろう。それは他の氏族や部族、そして他部族を制圧することによって貢納を期待できたはずである。しかし、ある時に軍事に秀でた一人の人物が影響力を行使しはじめ、その仲間を最初は17人に増やし、その後、70人、7百人、7千人、7万人と増やすにしたがって、軍事力はいっそう強まってゆく。その結果、そこからの貢納が飛躍的に増えることが期待できることになうが、それと同時に集団全体に対する統治の普遍的原理(法)が必要となるだろう。
しかしながら、騎馬遊牧民の場合には、もう一つの事情があったように思われる。それは、遊牧生活だけでは満たすことができず、隣接する農耕地帯からしか調達しえない各種の物品に対する必要であった。そのようなモノとしては、布、特に絹、穀物であり、またしばしば生身の人であった。もちろん、そのような財は、農耕社会との交易によって調達することも可能であっただろう。しかし、交易が成立するためには、交換財を与えなければならないが、遊牧社会にそうした財(馬など)がないわけではないものの、ほとんどの場合には不足していた。中国の史書を見ると、農耕社会からみて遊牧社会がいかにうっとうしい存在であったかが読み取れる。それを農耕社会側の「バイアス」(偏見)だという研究者もいるが、そこに一種の非対称性があったことまでは否定しえないだろう。中国農耕社会にとって、遊牧民の社会は、軍事的に制圧して他所に追いやるか、さもなければ、妥協して貢物を送るかの選択を迫られる存在と認識されていたことは確かであろう。そこにはいわゆる「共生」(symbiosys)、すなわち相互に妥協して生きてゆかなければならない複雑な関係があったことは事実である。
これを遊牧民社会の側から見ると、騎馬遊牧民の国家が農耕社会から多くの財を得ることができれば、その国家体制の安泰が保証されるが、ひとたび財の流入が途絶えると、部族連合はいとも簡単にバラバラと崩壊することもありえたのである。
こうしたことは、匈奴の場合も、突厥の場合も、後のモンゴルの場合も見られた現象である。
したがって北欧(スカンジナビア半島)の地理的に分断された小王国が相互に干渉されずに(live and let live)、生きてゆくことができたのと反対に、遊牧社会に隣接する地帯は、常に非対称的な共生関係を余儀なくされたということができるだろう。
こうした非対称については、すでに一度高句麗の南下と馬需要、神話に関連して書いたが、今一度、遊牧民社会の祭祀・神話をもう少し詳しくみることによって、少し深堀してみたい。
(続く)