水が毎日の生活に欠かせないことは誰でも知っている事実です。一日たりとも水を使わずに生活している人は一人もいないでしょう。朝起きて、朝食を作り、コーヒーを淹れ、歯を磨き、洗濯をし・・・云々と水は生命を維持するのに絶対必要不可欠な物質です。そのありがたい水を現代人は、文字通り湯水のごとくに使っていますが、そのようなことができるのは、公共の水道設備がほぼ完全に整備されているからにほかなりません。
しかし、私自身の経験でも、水道設備の恩恵をこうむることができるようになったのは、比較的最近のことです。私の生家は、おおまかにいえば、谷地形の中にありますが、丘陵部から30メートルほどはなれた場所にあり、しかも丘陵部と家との間には県道がはしっていました。そこで、沢筋のきれいな水を直接に取るのがむつかしく、かなり遠く(100メートルほど)離れた場所から、戦後でもまだ竹樋を用いて水を家に導き、かなり大きい手水石にためていました。ですから、風呂などをたてるときには大変、バケツを使って何回も浴槽に水を入れなければなりませんでした。大変な作業です。もちろん、洗濯をするのも、料理をするのも、大変でした。実は、その場所に屋敷を移動したのは、ちょうど昭和の初めころで、それまではわが家が「古屋敷」と呼ぶ丘陵部に接した土地に家があったようです。その時も沢から取水した水を手水鉢にためていたかもしれませんが、長い竹樋を使わずに済んだはずです。
そのようなことを考えて、あらためて私の田舎の昔からの家々の配置を見直してみると、ほとんどの家は、丘陵部の中腹にあるか、丘陵部から平地に変わる場所に家を建てていることに気づきます。公共の水道設備がない時代、水が家の場所を決める最も重要な要素だったことは間違いありません。
実は、外国、例えばフランスからロシアにまで広がるヨーロッパ平原でも、伝統的な家の配置は水の供給を第一にして決められていました。当地のように高低差のあまりない大平原が広がっているところでは、水を簡単に得ることができる場所というと、大小の河川に隣接した場所です。そのため、ほとんど例外なく、集落は河川のすぐそばに置かれていまし。そこでは、おそらく急傾斜の山岳地が圧倒的な日本と違って、雨が降っても、洪水や悲劇的な水害に見舞われることが少なかったことも理由となっているかもしれません。
もちろん日本でも、とくに弥生集落などは、河川の流域に置かれています。しかし、それは水田稲作を行うための水利のためであり、日々の日常生活のためではないかもしれません。というのは、ヨーロッパ平原の場合と異なって、集落や竪穴住居は、川から少し離れた丘陵部の中腹などに築かれています。また中には、前に触れた赤坂遺跡(三浦市字三戸ハタ)のように台地上にある場合もあります。横浜市域にある大塚・再勝土遺跡の場合も、集落(環濠)も微高地上に築かれています。しかも、後者の場合には、村の周囲に環濠がめぐらされています。
いったい、これらの集落は飲用水などをどこから得ていたのでしょうか?
私が知る限り、これについて考古学者が説明しているのを聞いたことも、見たこともありません。したがって以下は私の推測でしかありません。まず赤坂遺跡の場合には、集落のある台地のすぐ下には、谷戸(谷地)があり、おそらくそこに比較的簡単に取水できる場所があったのではないかと考えられます。しかし、簡単といっても水を谷戸から毎日運びあげるのは、かなり大変ではなかったかと思います。大塚環濠集落の場合も、同様に周囲の谷戸(谷地)に降りて取水するしかなかったのかと思われます。もしかすると、どちらの場合も、雨水をためて利用した可能性も否定できないかもしれませんが、あまり蓋然的な想定ではないようにも感じられます。
もしかすると、環濠は、直接にそこにたまった水を利用するための設備だったのではないかとも、あるいは、そこにたまった水が地中を通って濾過され、谷戸のきれな水として湧水するための施設だったかもしれないとも思います。環濠というとすぐに近隣集落民との戦争を連想することが多いように思いますが、むしろ日々の生活のために必要不可欠なものだったと考えるほうが合理的にも思えます。とはいえ、それだけが目的だったというのではなく、すでに何人かに指摘されているように、例えば近隣の河川と連絡している環濠もあり、その場合には、船を用いた河川運輸や交易との関係があったのかもしれません。また環濠に接して逆茂木が置かれている場合には、水害対策の一環と考えられるケースもあります。
上に私が書いたことには証拠となる遺構・遺物が欠けています。しかし、そうであっても、古代人たちが日々の生活に必要な水をどのようにして得ていたのかという問いは、有効のはずです。
横浜市の環濠集落遺跡(上) 三浦市の赤坂遺跡(下)
両者とも集落外の谷戸・谷地または環濠でしか取水できない立地を示している。