三浦半島の弥生集落遺跡 続き | 書と歴史のページ プラス地誌

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私の郷里の上越地方(糸魚川市、上越市など旧頸城郡)の歴史・地誌をはじめ、日本列島、世界の歴史・社会・文化・言語について気の向くままに、書き連ねます。2020年11月末、タイトル変更。

 昨日に続いて三浦半島の弥生集落遺跡の紹介をします。

 先日書いたように、弥生時代中期前半に須和田式土器を生産する集団が海岸部にのみ現れます。下図では、青●の4か所(小田和湾沿岸、三崎海蝕台地の西岸、北下浦沿岸、平作川流域[当時は海岸])です。そして、その後、宮ノ台式土器を作る集団が田越川流域、平作川流域、鴨井湾沿岸、北下浦沿岸、小田和湾沿岸、三崎海蝕台地)に出現します。これらの人々が東海あるいは遠州・駿河方面から箱根を超えてやってきたのではないかということも、紹介しました。

 それらのすべてについて触れることはむつかしいので、以上のうち最も広い沖積低地を持つ平作川流域の弥生集落を中心として紹介することにします。といっても、ここでは、『横須賀市史』の資料・考古編に紹介されている4つの弥生集落遺跡を取り上げ、その内容をかいつまんで記すにとどめます。

 最初に平作川流域ではなく、鴨井湾沿岸の高台に位置している上ノ台遺跡(下図の5)を取り上げることにしますが、その理由は、この遺跡が様々な要因が重なったために、最もよく保存されており、他の集落遺跡の性質を理解する上でも、役立つとされているからです。

 この遺跡は、鴨井中学校の新しい敷地とすることが計画されたため、1977年から調査が始められましたが、そこには縄文時代以降の各時代からの遺物が分布していることが判明したため、翌年まで本格的な調査が実施されました。調査後、学校が建設されたため、遺跡自体はほぼ消滅したようです。

 縄文時代の遺物としては、様々な時期のものが出土したようですが、主体となるのは早期の土器であり、前期~後期の土器はごく少量でした。

 最も注目されるのは、弥生時代中期後半(宮ノ台期)から古墳時代にかけての住居跡が141軒出土したことです。このうち古墳時代のものは2軒であり、139軒が弥生時代のものでした。さらに注目されるのは、住居跡の平面図の形態(楕円・円・隅丸方形・方形)の推移についての分析がなされ、集落の時期的変遷が分かったことです。結論的に言うと、住居跡の平面図は、中期後半の楕円(A)から始まり、後期における楕円(A)→円(B)→墨丸方形(円形に近い、C1)→墨丸方形(方形に近い、C2)→古墳期の方形(D)と変化してゆき、全体で6期に分かれることが明らかにされました。それぞれの住居数は、中期後半が11軒(A)→後期が2軒(A)→12軒(B)→30軒(C1)→40軒(C2)→古墳前期・中期が21軒(D)でした。そして古墳時代後期(E)には住居はわずか2軒でした。

 ここで興味をひくのは、後期の初頭に住居数が極端に少なくなることですが、これについて、資料では特別な言及がなされていません。しかし、このブログでも何度か触れたように、後期の前半(概ね2世紀の早い時期)は東アジア全般に寒冷化した時期であり、それが何らかの影響を及ぼしたのかもしれないと想像します。しかし、それはともかく、後期の後半になると住居数は飛躍的に増加しました。そして、古墳時代になると、集落は消滅してゆきますが、この時は、人々が稲作のために低湿地に移動していったと考えられるとされています。

 もう一つ興味を引くのは、C1とC2との間に一つの画期があり、土器の内容が大きく変化したという事実があることです。資料では、あきらかに他地域から持ち込まれた土器がみられるようになり、従来からの当地の土器文様に加えて、房総半島の沿岸部や東海地方に見られる櫛状沈線文などの新しい文様がみられるとされています。また駿河・伊豆地域に分布する大廊式の壺形土器や畿内に起源をもつ有段口縁の壺形土器も見られるとされています。弥生後期は、他の地域でも人や土器が大きく時期ですが、この点で三浦半島も例外ではなく、新しい土地を求めて人々がふたたび移動した時期だったようです。資料はまた当地で行われていたであろう漁業に関連して、瀬戸内海から和歌山県にかけて分布する土錘の類似する製品がC2段階に見られることを指摘し、両地域の「交流」があったことを指摘しています。

 

 蛭畑遺跡(下図3)

 この遺跡は、中世、三浦氏の山城の置かれていた地に近い小矢部の丘陵上にあり、その先端部には平作川中流域の沖積地が広がっています。調査は、まず1962年と1962年に2回実施されていますが、1986年にふたたび再調査されています。ここでは、弥生時代中期後半の住居跡25と、方形周溝墓5が検出されました。また人面土器や硬玉製の勾玉が発見されています。この遺跡も宅地造成のために現在は消滅しています。

 発見された住居跡は、宮ノ台期のものが22軒、久ケ原期のものが3軒です。方形周溝墓5のうち、丘陵の中段で発見されたものは、長軸20.1メートル、短軸19.1メートルという巨大な規模を持つものでした。資料では、土器様式について、詳しい解説がなされていますが、ここではすべて省略します。ただ、そうした検討の一つの結果として、集落の人々が「後期への移行は現存する遺物から見て若干の空白期を経て、再度集落を形成しているように思われる」と特記していることがやはり注目されます。やはりここでも、集落を維持することをむつかしくした何らかの事情があったことがうかがわれます。

 様々な事象を総括すると、この遺跡は、平作川流域の開墾に着手した最初の主要な弥生人集団の一つであったことは疑いなく、ここを拠点にまず谷地や沢が開墾してゆき、やがて人口が増加し、沖積低地の開墾技術に習熟するとともに、集落も分散して低地に移っていったという歴史がうかがわれます。後期により小さい集落が流域内の各地に出現することがそれを裏付けます。

 

 佐原泉遺跡(下図4)

 蛭畑遺跡の東方にあり、平作川の支流矢部川の小支流域の台地上(20メートル)に位置しています。この遺跡も高速道路佐原インター建設にともなう墓地移転のために消滅しています。調査は、その墓地移転に先立ち、1985年に実施されました。

 遺跡はあまり広いとは言えない台地上にあり、縄文時代の遺物が発見されたほか、弥生時代から古代にかけての住居跡71、土坑24などが発見されています。

 住居は、中期後半(宮ノ台期)が9軒,後期(久ケ原期)が5軒(他に5軒がこの時期の可能性あり)、古墳時代前期が6軒、中期が6軒、後期以降が28軒となっており、集落が中期後半から後期、古墳時代と継続的に営まれていたことがわかっています。

 ただし、後期の住宅跡の多くが古墳時代後期の住居跡によって破壊されているために、明確な時期決定ができないものが多い。また上の台遺跡の項で示したような後期中葉の円形(C1)の住居跡が検出できないため、この時期に集落が一時期途絶えた可能性が否定できないという。そして、その後、古墳時代前期にC2形の平面図を持つ住居が出現するために、再び集落が再開されたもののようである。としたら、やはりこの集落でも、何らかの事情(寒冷化か?)によって集落が途絶えるといった事件が生じたことになる。これとどこまで関係しているか不明ですが、出土する土器も宮ノ台式のものが多く、久ケ原式土器はかなり少ない。

 なお、宮ノ台期の住居跡からは炭化米が出ており、この時代に米作が行われていたことを示す確かな証拠となっています。

 総じていえば、この遺跡も、上に挙げた蛭畑遺跡と同じく、平作川流域の開墾をはじめた草分け的な集落であり、やがてここを拠点=母村として、平作川流域の低地に人々が分かれていったと考えられます。

 

 

 三浦半島の弥生遺跡(『弥生時代の三浦半島』より)   佐原泉遺跡の集落・住居跡(『横須賀市史』資料・考古より)

 

 

三浦市初声町赤坂遺跡 

 この遺跡ですが、すでに前回述べたように、はたして水田開墾のために置かれた集落だったのか、疑問の残るとろこです。周囲は水田に適した土壌の土地とは言えず、何よりも水田に必要な水をもたらしてくれる河川がありません。かといって海人の交易拠点や漁場の基地としては海岸から少し離れすぎています。どうしてここに、と思う次第ですが、これについては、疑問として残しておき、さらに調べてみたいと思います。

 なお、半島内の遺跡の多くは開発のために消滅していますが、この遺跡は奇跡的に保護・保存されています。といっても、現地に行っても、草の生えたかなり広い空き地があるだけ。それでも何度も行ってみました。

 実は、近くに初声町の会館があり、そこの一室に赤坂遺跡から出た遺物(土器)が展示されていました(私の記憶が正しければ、ですが)。そこに、毎月、オカリナ・グループの演奏練習のためのギター伴奏に行っていたのですが、その際、毎回のように展示品を見ていましたが、コロナのためにその練習にも行けなくなりました。この遺跡より北に向かって10分ほど歩くと、和田義盛の所領の地でもあった和田の地があります。なんとなく心惹かれる場所です。