日本語の成立 3 中国語(漢語)と日本語との関係 | 書と歴史のページ プラス地誌

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私の郷里の上越地方(糸魚川市、上越市など旧頸城郡)の歴史・地誌をはじめ、日本列島、世界の歴史・社会・文化・言語について気の向くままに、書き連ねます。2020年11月末、タイトル変更。

 これまで日本語の形成にかかわった多くの比較言語学者は、原日本語が弥生時代に大陸または半島からもたらされた渡来人の言語を元に形成されたと想定して研究をすすめてきた。その理由としては、明治時代以降の考古学の研究によって弥生時代に大陸/半島からの人間集団の移住のあったことが明らかにされてきたことがあげられる。例えば鳥居龍蔵氏は、「固有日本人」という用語を用いているが、この「固有日本人」というのは、16、000年以上前から日本列島に居住してきた「縄文人」のことではなく、弥生時代に日本列島に移住してきた渡来人とその子孫のことであった。言い換えれば、鳥居は、縄文時代から弥生時代にかけて人類集団の完全な「置換」が生じたと考えていたのである。ちなみに、置換説の正反対の意見は、継続説というべきものであり、縄文時代から現在まで同じ人類集団が継続しているという理解である。この継続説は、どのような理由からか、1970年代~80年代に一世を風靡した感があるという。これらの両極端の説に対して、中間的ともいうべき理解も有力な説として行われてきており、これによれば、ある時期(弥生時代)に、日本列島の先住集団=縄文人と大陸/半島からの渡来民が本州のとこかで交雑し、新しい集団が生まれたということになる。

 ところが、20世紀末から現在にいたるゲノム解析は、これらの三説のうち交雑説を決定的なものとしており、その結果、今では置換説も継続説もともにほぼ100%否定されていると考えなければならず、したがって、また日本語の形成を科学する場合には、このゲノム解析の結論を無視することはできない。

 ゲノム解析が日本語の形成論にとって持つ意味は、一つには、弥生時代以降の日本語が、可能性としては、一方では、縄文語の特徴を色濃く帯びている可能性を示すともに、他方では、大陸/半島の特定の言語の特徴を帯びている可能性をも示すという風に要約できるであろう。いずれにせよ、両面の可能性があるのであり、何の根拠もなく、アプリオリにそのいずれかを切り捨てることはできない。

 とはいっても、これまでの研究成果をいっさい無視して、新たに研究をゼロから始める必要はない。これまでの150年近い期間の地道な研究によって分かっていることが多いからである。そして、そのような研究として何よりも取りあげなければならないのは、アジア諸地域で話されている諸言語の語彙面からの日本語との比較である。最初にきわめて大雑把な言い方で要約すれば、これらの研究が明らかにしたことは、日本語との同系を示唆するほどの高い割合で共通語彙を持つ言語は、まったく存在しないという事実である。おそらくアジアに存在する諸言語のほぼすべてが調査され、日本語との共通祖先の言語に由来するような語彙(共通語)を、偶然では生じないような確立で、持つ言語はまったく存在しなかったのである。

 たしかに、それぞれの言語に含まれる多数(何万!)という語彙の中には、日本語の語彙と類似するものがあることは何人も否定できない。しかし、ほぼすべての人が無関係と認めるであろう日本語と英語との間にも、類似語は少数ながら存在する。これまでも何度か示したが、boy(英)と坊や(日)、name(英)と名前(日)、woman(英)とをみな(日)、等々が類似しれいるからといって、日本語が英語と共通の祖先に由来するという人はいないであろう。この点に通じている人の意見では、まったく無関係の言語間でも、類似語は 3~5 パーセントは存在するという。研究者によっては、数十の類似語をあげる人もおり、これが多いと感じる人もいるかもしれないが、何万という多数の語彙の中の数十はあまりに少ない数である。私の意見では、まずスワデッシュの基礎語彙試験(100語または200語)にかけて、共通語/類似語が偶然ではないというレベル(例えば15%、20%など)に達しているかを確認するべきであろう。ちなみに、スワデッシュの見解では、ある言語の語彙は1000年間で20%を別の語彙に変えてゆくため(残りは80%)、共通祖語から分岐した二つの言語は、1000年後には64%ほどの語彙を共有することになるとされている。もしこの速度が変わらないと仮定するならば、5000~6000年後には、共有される共通語は数パーセントに(つまり偶然による一致と変わらないレベルにまで)低下する。

 このことの示す意味は、きわめて大きいといわなければならない。弥生時代は、かつては今から2500年ほど前に始まるとされており、また最近の編年でもせいぜい3000年前に始まるとされている。この年代観を前提にすると、もしこの時代に日本列島への移住した者がもたらした言語が原日本語となったならば、スワデッシュの法則による共通語彙率は、27.5%ほどとなる。これは、ドイツ語と英語との距離よりは若干遠いが、決して疎遠というほどのものではない。もし基礎語彙の中に、これほど(3割弱)の共通語彙を持つ言語が存在したならば、専門家は言うまでもなく、素人でも直感的に理解できたであろう。

 しかし、そのような言語はついに発見できなかった。これは日本語に関する比較言語学の失敗と言うこともできるかもしれないが、必ずしもそうとは言えないであろう。というのは、弥生時代以降の日本語が基本的に縄文語を引き継いでいる可能性を強く示唆するものとも言えそうだからである。実際、日本の比較言語学者の中にも、それを示唆する人はいた。その一人は服部四郎氏である。

 

 だが、その点に移る前に、ここではもう一つの点について注目しておきたい。それは、弥生時代に日本列島に移住してきた人々は、どのような人々(居住地など)であり、どのようにして移住してきたのか、という点である。

 この点についても、ゲノム解析は、かなり重要な事実を明らかにしてきたようである。詳しい厳密な紹介は、ここでは出来ないが、かいつまんで要点だけを示せば、次のようなことになるであろう。

 1、日本に移住してきた集団は、水田稲作という産業技術をもって渡来してきた人々であるが、その原郷は長江下流(揚子江)の流域であるが、ある時期までにこの稲作技術を持った人々が山東半島あたりまで広まっていたらしい。ところが、3000年前頃に始まる気候変動=地球寒冷化や政治的動乱のため、朝鮮半島を経由して/あるいは直接に日本列島(北部九州)に移住してきた。

 2、日本にもたらされた水稲のゲノム解析から見ると、中国の稲と一致し、朝鮮半島の稲とは異なっているため、この点から見れば、山東半島あたりから直接北部九州への移動があったと見るべきかもしれないが、いったん朝鮮半島に移動したものの、かなり短期間で半島から列島に再移住した可能性も必ずしも否定できないようである。後者の可能性(蓋然性)は、朝鮮半島の集団における中国(山東半島以北)の要素の存在からも、また朝鮮半島には水田稲作の適地が乏しかったという事情からも、推測される。またもし地球寒冷化が背景にあったとするならば、その影響は、朝鮮半島にも及んでいたはずである。

 

 さて、もしこのように想定されるならば、古中国語(and/or)古朝鮮語の影響が当時まで日本列島で話されていた縄文日本語に大きい影響を与えたとみるのが順当であろう。もちろん、可能性としては、古中国語が縄文語を駆逐し、縄文語に置き換わったと考えることも不可能ではないかもしれないが、孤立語としての中国語と膠着語としての日本語との統語論上の相違があまりにも大きいので、その可能性は限りなくゼロに近いとみなければならないであろう。

 しかし、反面、まったく何の影響も与えることはなかったということも考えずらい。

 この点に関連して、日本語=縄文語説の小泉保氏は、日本語のピッチ・アクセント(高低アクセント)が古中国語の声調(音節単位の音の上降、一種の音楽的アクセント)の作用によって生じたと論じている。小泉氏によれば、縄文語は、無アクセントの言語であった(九州の宮崎県や本州の茨城県・福島県などに見られる体系)であったが、声調を持った渡来人の言語の影響を受けて高低アクセントの体系に変わったという。

 この見方について、ここでは詳しく検討することができず、いくつかの疑問点だけをあげておく。一つには、中国語のアクセント(声調)は、音の高低を示すものだとはいえ、一音節内の声の上昇・平行・下降というものであり、複数節=拍(mora)の音の高低を示すものではないことがあげられる。また縄文語が無アクセント体系であったという証明は、必ずしも充分説得的に行われているようにも見えない。むしろ金田一春彦氏がシメしたように、もともと日本語にはピッチアクセントが存在しており、ただ異なったピッチ・アクセント体系をもつ方言(例えば東京式アクセントと京阪式アクセント)の間にあって、無アクセント化した方言を話す人々が現れてきたという考え方のほうが説得的に思われるフシがあるからである。しかし、これについては、なお検討するべき余地がある。

 もう一つは、語彙にかかわる点である。ただし、ここで語彙といっても、5世紀以降に日本列島に導入されてきた外来語としての中国語(漢語)の語彙ではない。こうした漢語については何の疑問もない。例えば今私の机上にあるパソコンは、漢語で「電子計算機」であり、音(おん)をもって「でんしけいさんき」と発音する。このような外来語としての漢語は、現在でも広く使われており、日本語が漢字から離れられない理由の一つとなっている。

 しかし、変な言い方になるが、まったく日本語化しており、古くからの日本語のように見える漢語由来の単語もないわけではない。その一つは馬(ウマ)である。馬は、もともと日本列島には存在せず、4~5世紀に大陸から輸入されたとされている。その倭語はもともと存在せず、馬の中国語の発音(ma)から「ウマ」「ムマ」という日本語が生まれたとされている。梅(mei)についてもほぼ同様である。私は、鉄(tiet)もそうではないかと思っている。鉄も弥生後期まで日本には存在しなかったが、朝鮮半島南部(加羅地域)から導入され、輸入されていた。当然、それを示す倭語もなかったので、漢字の発音(tiet)を倭人の訛りで「テツ(tetsu)」と発音するようになった。そのため、鉄には音も訓もない。あるいは音でもあり、訓でもある。

 ところが、少数ながら、言語学者(中国語研究者)の中には、日本語はもっと広く漢語を倭語として取り入れていたと考える人がいる。『日本語の起源』(近藤健二)や「日本語と古代中国語」(小林昭美)などをあげることできよう。

 これらの著者があげている具体例を見てみよう。(数十はあるが、そのうち、可能性が高いか、説得力のありそうないくつかの例を示すにとどめる。)

  漢語とその音・発音  倭語の意味と発音

   秈(セン、sen)   稲 しね sine イネ ine(s の脱落系)

   絹(ケン、ken)   絹 きぬ kinu

   浜(ヒン、hin )   浜 はま hama

     鎌(レン、lem)         鎌 かま kama

     詔(ショウ、tiog)  告ぐ つぐ tsugu

 

 稲(イネ)は、弥生時代に大陸からもたらされた栽培植物であるにもかかわらず、その語が大陸の言語には見当たらないとされている単語といってよいであろう。著者(小林氏)によれば、秈は日本語の稲と同じ意味の言葉であり、音(セン、古代中国語の発音もこれに近い)は、「ン」終止の単語のなかった倭語では「ネ」になったという。またセンは、しばしばs音なしでエンと発音されたという。絹(ケン、きぬ)の語尾も同様に説明される。また絹も古来日本列島にはなかった産物である。したがって私もその可能性を否定しきれない。

 しかし、それ以外の多くはどうだろうか? まず浜(音=ヒン)であるが、これが日本語「はま」となるには、母音(イ→あ)の変化だけでなく、子音(n→m)の変化が説明されなければならないだろう。鎌は古中国語の発音では、lem (音=レン)のような音であり、鎌(かま)がどうして導出されるのか、疑問である。詔(ショウ、tiog→tshieu)は、藤堂明保の漢和辞典でも、-g 終止の発音とされているが、これに母音(u)がつき、終止形の「つ・ぐ」となるとされている。しかし、古中国語の -g 終止の単語が倭語で「~ぐ」となる事例は、他にも見られるのであろうか? これに対する説明は欠けている。

 

 こうした実例は上の他にも決して少なくないように見える数あげられている。しかし、どんなに多そうに見えても、そこには基礎語がほとんど含まれておらず、また一つの言語の総単語数からみれば、ごくわずかな事例にすぎない。信じる人は信じるかもしれないが、信じない人にも信じさせるような内容を欠いているといったレベルであろう。(とりわけ近藤氏があげている事例は、倭語も、それを説明する複数漢字の組み合わせも、恣意的であり、説得性を欠いているとしか言えないが、ここでは詳細は省くことにする。)

 

 おそらく、弥生時代の日本人は、ほとんどの場合、稲作用語についても、渡来した人々の言語に頼ることなく、それまでに使ってきた語彙を継続して用い続けたのではないかと思われる。そこには、二つの事情があったはずである。一つは、渡来者が在来集団に比べて常に圧倒的な少数派だったと思われることである。具体的な数値例は出来れば使いたくないが、理解の助けのためにあえて使うと、1、000人の在来集団の居住地に20人ほどの移住集団が入って来たとする。この場合、第一世代は、在来集団の言語を使わざるを得ないが、片言の域を出るものものではなかっただろう。しかし、その子の世代になると事情は変わり、子たちは倭語を用いて在来集団と交通し、家では大陸の言語を用いる。第三世代になるとさらに事情は変わり、倭語が家での会話でも使われるようになり、大陸の言語は急速に忘れられて行く。もちろん長い期間にわたって渡来者は次々に渡ってくるであろうが、同じことが繰り返される。列島では、ついに大陸の言語は普及することがなく、縄文語以来の伝統的な言語が続くことになる。同じようなことは、身近な例では、ブラジルに移住した日本人にも生じていたことがよく知られている。今日では、日本語を話せる日系人はきわめて少ないことは驚くにたらない。これと同じことが今から3000年~2000年前に生じていたと考えればよいだけの話である。

 ただし、もう一つだけつけ加えておかなければならない。それは人口の成長率の差異である。おそらく疑いなく、縄文系の在来集団と渡来人系の弥生人との間には、人口成長率に大きい差があったはずである。言うまでもなく、水田稲作技術を持った渡来系人は、高い人口成長を実現していた。一方、これに対して縄文系の在来集団は、しだいに渡来人集団と交雑し、それと同時に稲作技術を身につけていったが、それでも(とりわけ、そのゲノム上の)人口成長率では、はるかに低かったと想定される。そして、たとえ年率ではわずかな差異にすぎなかったとしても、その差は、数百年という長期間の間には、大きい差異を生み出したはずである。要するに、渡来者は在来者集団に比べると少数だったが、その遺伝子上の比率は、在来集団をはるかに越えるに至ったと考えられる。ここでは、数値例を用いたシミュレーションを示すことはしないが、ここで述べたことは、ゲノム解析の結果とも一致しており、それ以外には説明のしようがない。

 以上のとおり、ここでもまた、現在話されている日本語の骨格が縄文時代にまで遡るという見方を否定するような証拠はなかったことが確認されたといって間違いないであろう。